歩行と感情表現──マリオネットの身体性
「金沢健一 延長線上のマリオネット ひととひとがたの間」(川口市立アートギャラリー・アトリア)
「人間的」という語には2つの用法があると思われる。ある非人間が人間的だと認められるならば、それが人間らしい知性を有しているか、あるいは、人間らしい身体性を示しているかのいずれかだろう。例えば、しばしば生成AIや犬が人間的だとされるのは、主にそれらの知性のためである。対して、本展の主題は後者の用法に関わる。
本展は、彫刻家の金沢健一(1956〜)の個展であり、「ひととひとがたの間」という副題が示唆しているように、観る者に木製のマリオネットを人間的なものとして感じさせることを意図したものだと考えられる。そして、それはマリオネットが身体性を示していると判断されるかどうかの問題だろう。
会場には、3種類のマリオネット作品が展示されている。はじめに目に映るのは、《延長線上のマリオネット─歩く人》(2025)である。そこでは、モーターによって動かされる5体のマリオネットが、足音を立てつつ(*4)、その場で歩行を思わせる運動を繰り返している。それが人間(あるいは健常者)の歩き方に似ているために、それらのマリオネットにはある種の身体性が感じられる。だが、その動きは反復的・機械的でもある(*5)。

それに対し、《4態のマリオネット─1~4》(2025)と題された作品、天井から吊り下げられた4体のマリオネットのなかには、より強烈な身体性を感じさせるものがある。そのマリオネットは、本体とそれから切り離された2本の脚という3つの部分を、ほとんど不規則に動かしている。その様子は、まるでかつて一体だった各部分が互いを求めつづけているかのようである。

わたしがそのマリオネットに身体性を強く感じるのは、その動きに困惑や喪失感といった感情の表現が認められるからである。それはけっして人間の行為を再現したものではないが、そこには、このうえなく身体的なものがある。身体のなしうることのなかで、感情表現はもっとも強烈なものではないだろうか。それが認められるとき、ひとはマリオネットが身体性を示していると感じるのだ。
また、本展では、鑑賞者が操作することのできるマリオネット作品、《マリオネット》(2020)が壁際に配置されている。それらのマリオネットの1体が、見知らぬ子供によって動かされて、たどたどしく歩き、ときに転んでしまう様子をながめながら、わたしは、そこにある種の感情表現を見て取らずにはいられなかった。それもまた、反復的・機械的なマリオネットの動き方とは異なるものである。マリオネットの不規則な動きを前にして、ひとはそこに感情表現を認め、その身体性を感じ取るだろう。
*4──音は本展の重要な構成要素であり、ハンドアウトに掲載された「作品のせつめい」によれば、もともと、作家はマリオネットを《音のかけら》から音を出す道具として制作したという。なお、本展にも、鉄版の作品である《音のかけら N》(1999)が出品されている。
*5──もっとも、「作品のせつめい」では、《延長線上のマリオネット─歩く人》について、「歩く行為は人間の生き様そのものでもあるかのように5体のマリオネットは前方を向きながら歩き続ける」とされ、むしろ、その反復性のためにそれらのマリオネットを人間的なものとして捉えるという見方が示唆されている。
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