「回復」の知覚
磯谷博史「回復」(カスヤの森現代美術館)
本展は、「パンゲアの破片」と「活性」の2つのシリーズの展示からなる。展示室においては、それぞれ、壁面全体に写真作品「パンゲアの破片」が、床の中央に陶芸作品「活性」が配置されている。以下では、「パンゲアの破片」に焦点を当てて、「回復」という本展の主題について書く。

「パンゲアの破片」は、「第二次世界大戦末期に破壊されたオーストリア・ロースドルフ城の陶磁器片を、ミルクに浮かべ撮影したもの」だという(*1)。そこでは、陶磁器の「回復」が目指されているが、それは、文字通りの回復(あるいは修復)ではなく、むしろ「精神的な側面からの回復」である(*2)。作家が破片をミルクに浮かべること、それを撮影すること、そして、鑑賞者がその写真をながめることを経て、破壊されてしまった陶磁器は、なんらかの意味で「回復」するのだ。
では、どのように「回復」は起きるのか。そのことを具体的に考えるために、《パンゲアの破片 03》(2025)を取り上げよう。その写真作品は、縦141.4センチ、横107センチの大きさであり、その画面中央には、ひとつの破片がミルクに浮かんでいる。ここでわたしが「ミルクに浮かんでいる」と記述できるのは、その作品のある種の制作過程を知っているからである。だが、実際に画面に没入しはじめると、破片とミルクの位置関係を上/下と捉えることはできなくなる。そのとき、その平面のなかでは、破片の色彩がミルクの白色ににじみ出ているからである(*3)。破片は広がっていき、もはや断片ではなくなる。そのようにして、陶磁器は「回復」していく。

Edition 1 of 5 写真提供:カスヤの森現代美術館
もちろん、そのような「回復」の出来事は、鑑賞者の知覚に依存しており、ほかのかたちで「回復」を知覚することも、そもそも「回復」を知覚できないことも十分にありえる。実際、わたしも、複数の破片を写した作品を観ていると、それらの破片内のイメージ同士がつながりきらず、それぞれの断片をそのまま断片として捉えざるをえないという感覚をおぼえる。また、破片の割れ目がミルクの上に浮き出ていると、割れ目の物質的な存在感のために、破片の広がりは感知できなくなる(この点からは、作家が陶磁器の破片の写り方を完全にコントロールしているわけではないことがわかる)(*4)。
最後に、「活性」にも言及しておきたい。「活性」は「釉薬を纏わない素焼きで焼き締められた作品」であり、「その素材には、磯谷が購入し集めた約5000年前の土器片が用いられてい」るという(*5)。その制作方法は、過去の土器の、やはり「回復」に関わるものだと考えられる。だが、「パンゲアの破片」の「回復」が鑑賞者の知覚に依拠しているのに対し、「活性」は、すでに物理的・幾何学的に形づくられており、いわば「回復」の産物として存在している。そこでは、その「回復」に関する興味深い事実を知ることができるものの、鑑賞者がその球形の作品に精神的に関与するとは考えにくい。
*1──展覧会テクストより引用。全文は以下にも掲載されている。「磯谷博史 回復 / カスヤの森現代美術館」カスヤの森現代美術館、https://www.museum-haus-kasuya.com/磯谷博史%E3%80%80回復/(2026年5月7日アクセス)。
*2──同上。
*3──この点は、クレメント・グリーンバーグの絵画論、とくに絵画的(painterly)/線的(linear)という対概念を活用した、ヘレン・フランケンサーラ―らの絵画についての論考と関連していると思われる。クレメント・グリーンバーグ「ポスト・絵画的抽象」川田都樹子訳、藤枝晃雄編訳『グリーンバーグ批評選集』勁草書房、2005年、164–172頁を参照。
*4──また、展示室の外の廊下には、破壊された陶磁器(片)を写した、比較的ストレートな写真が展示されている。
*5──展覧会テクストより引用。
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