AI批評と生
鳥本采花「瞳の解釈、希望の声」(GALLABO TOKYO)
本展には、鳥本采花による子供のキャラクターを描いた絵画作品群が展示されている。鳥本によれば、そのようなキャラクターを描くことの目的は、「過去の自分」にとらわれている「今の自分」を、「絵を通して幼少期にできなかったことを子どもの姿をしたキャラクターにやらせることによって」解放することにあるという(*1)。
また、本展は、鳥本の作品群のみならず、それらについての、生成AIによる批評(以下、AI批評)のテクストを展示している。それこそが、2026年1月16日にオープンしたばかりのGALLABO TOKYOにおける企画展の特色なのだが(*2)、それらのAI批評は、ほとんどすべての作品と併置されており、また、終わりの箇所では、鳥本と美学者の秋庭史典のそれぞれによる、AI批評に対する「総評」が展示されている──そのため、本展を観る者は、作品を鑑賞しているという以上に、AI批評のテクストを鑑賞しているという新鮮な感覚を抱くだろう。それらのAI批評は、批評理論や美術史的な知識・文脈にもとづいて生成されていることもあり(*3)、少なからず説得的であり、その出来は、近い将来、人間が批評を書く必要はなくなるのではないかと考えざるをえないほどである。

しかし、本展におけるAI批評に不十分な点がないとは言えない。そのひとつは、あくまで作品の一つひとつを批評することに固執しているという点である(そもそも、少なくとも本展のような個展において、鑑賞者が作品の一つひとつを完全に独立したものとして観ることは不可能であるにもかかわらず)。しかし、それはテクニカルな問題であり、解決しようと思えば、近い将来、簡単に解決できるだろう。
より本質的な問題は、AI批評の言葉が抽象的でしかありえないという点にある。どういうことか。鳥本は「総評」において、《Aiko》(2026)が、「母親の幼少期を表した作品」であり、「幼少期に年子の姉と違い、男の子のような服しか着せられてこなかったことや、飼っているインコを親戚に引き渡されてしまったこと、人形遊びに熱心だった時期があったことなど、ごく個人的なエピソード」にもとづいていると述べつつ、AIがその作品に「かなり堅い意味を持たせ」ていると、やや批判的に言及している(実際のAI批評は、「《Aiko》は、正面性と色彩の歪みによって、無垢という期待を即座に裏切る子ども像を提示する」という一文から始まる)。もちろん、AIはそのエピソードのデータと適切な指示を与えられれば、その点を踏まえた批評を生成することができただろう。だが、あくまで先立っているのは、そのような生を送っていた人間の存在である。たとえ具体的な生に言及することができたとしても、AIが文字通りの生を生きることはない。

もちろん、批評は、作家の意図を言い当てることや、作品をある種の伝記的事実と結びつけることのみを目的とするものではない。実際、多くの場合、批評は批評家の生にもとづくものでもある(ときに、両者の生は共通点を有している)。本展におけるAI批評は、批評理論を巧みに使いこなしてみせるが、フェミニズム批評をはじめとする、それらの批評理論は、そもそも批評家の生の産物にほかならないのではないか。にもかかわらず、それらの理論をたんなる情報として駆使するAI批評に、わたしは、違和感をおぼえずにはいられないし、そのような「批評」をシリアスに受け止めることはむずかしいと感じてしまう。
わたし自身は、キャラクターと比べ、その他の生物たち──インコ、テントウムシ、タンポポなど──がリアリスティックに描かれていることが重要だと主張したい。というのも、それらのリアリティは、作品を、特定の人間(の幼少期)の生に関するものであることを超えて、複数の種の生の存在に目覚めさせうるものにしているからである。AI批評によれば、それらの生物は、なんらかの記号的意味を付与された象徴のようだが(また、鳥本もそのような解釈を容認しているようだが)、それらを生物の絵として文字通りに観ることもまた可能だろう──わたしにそう感じさせたのは、とくに《Ivy》(2025)におけるテントウムシの輝きである。

*1──『AYAKA TORIMOTO PORTFOLIO』内の「Statement」に拠る(ポートフォリオは、ギャラリーで閲覧できる)。なお、本展のためのステートメントは存在しない。
*2──GALLABO TOKYOの詳細は、以下を参照。有田隆也「GALLABO TOKYOのヴィジョン」GALLABO TOKYO、https://www.gallabotokyo.com/gallabo-info/vision/(2026年2月27日アクセス)。生成AIとは異なり、AI批評の設計者は生を送っている。
*3──厳密に言えば、本展におけるAI批評は、「構造」、「議論」、「心」の3つの手法のいずれかによって行われており、この点が当てはまるのは、前二者のみだと言える。「心」にもとづく批評は、「批評」と、それに対する「メタ批評」、さらに、「メタ批評」に対する「メタメタ批評」によって、画家や鑑賞者や批評家の心に関する考察をおこなう、もっともアクロバティックなものである。
動植物の表象はいかにしてリアリティを有するか
「Dear Animals and Plants ―親愛なる仲間たち―」(群馬県立館林美術館)
本展を観る者は、群馬県立館林美術館を囲む、広大な芝生や修景池を泳ぐ水鳥、散歩中の犬たちといった植物や動物の姿を横目に見ながら、美術館内に入ることになるだろう。その結果、そこに展示されている近現代美術の作品群が、動植物そのものではなく、それらの表象だという感覚を抱くかもしれない。では、動植物の表象はいかにしてリアリティを有するのだろうか。
本展は、「1 動物と植物を知る」「2 性質と象徴」「3 形と色」「4 うつくしい姿と癒し」「5 生命について」の5章構成である。第1章では、18世紀に刊行されたビュフォン『博物誌』の影響下に著されたという、動植物の挿絵付きの書物が展示されている。それらの書物は、動植物についての知識の記述を目的としており、そのために挿絵も写実的に描かれている。それらを前にすると、やはり、写実的な表象にはある種のリアリティがあると感じられる(とはいっても、ガラスケース内に、特定の見開きページのみが見えるように展示されているために、それらの展示物に没入することはむずかしいのだが)。
ところが、それ以後の章では、動植物を「象徴」として描いた作品(とくに第2章)や、それらを「形」に還元した作品(とくに第3章)が多く、動植物の描写自体を目的としたものは少ない。しかし、動植物の表象がリアリティを有するための、いわば別の回路があるのではないだろうか。
注目すべきは、第5章における「生命」をテーマとする作品群だろう。それらは、動(植)物が生命を有するという点、とくに死ぬものだという点を重視している。そのうちのひとつ、アンディ・ウォーホル《危機に瀕した種》(1983)は、アフリカゾウやクロサイなど、10種の絶滅危惧種のイメージを写した、10枚組のシルクスクリーン作品である。キャプションによれば、環境活動家でもあった画商のロナルド・フェルドマンの依頼を受けて、ウォーホルはその作品を制作したという。だが、いかにもウォーホルらしい、そのビビッドな色づかいは、彼の絶滅危惧種に対する態度を宙吊り状態にしているようでもあり、そのため、その作品を観て、それらの動物の死という問題をはっきり読み取ることができるかどうかは、鑑賞者次第だと思われる。

対して、同じく第5章に展示されている、パブロ・ピカソ《闘牛技》(1957)は、動物の死をありありと描いている。それは、18世紀末に著された闘牛の理論書のための挿絵として制作された銅版画である。そこで、ピカソは、10枚にわたって(*4)、牡牛が闘牛士によって殺され、闘牛場から引きずりだされるまでの物語を描いている。その絵は、ひじょうに簡潔な筆致で描かれており、けっして写実的ではないが、その物語の流れには鑑賞者を引き込む力があり、そして、その牡牛の死のシーンには動物の生命が失われうるものであるという点がはっきりと示されている。もちろん、ピカソは闘牛に対して批判的なわけではなく、その点を非難することもできるだろうが、彼が描き出している動物の表象が、特殊なリアリティを有しているということ自体は認めざるをえない。

*4──厳密に言えば、《闘牛技》は全27枚からなり、本展には、そのうちの10枚が展示されている。


























