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2019.2.1

時空間のフレームを超えて。中尾拓哉評 磯谷博史展「流れを原型として」

彫刻、写真、ドローイングや、それらの複合的なインスタレーションによって、物事への認識を再考する作品を発表してきた磯谷博史。動かない彫刻や写真を、固定された物体としてではなく、出来事や時間の流れとしてとらえた個展「流れを原型として」が青山|目黒で行われた。磯谷が取り組んだインスタレーションを読み解く手掛かりとは。美術評論家の中尾拓哉が探る。

文=中尾拓哉

会場風景 Courtesy of the artist and Aoyama Meguro
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離散的な時空間の歩行

 あなたはある土地に立ち、あたりを見回している。そこから空と陸、あるいは海が見えるかもしれない。しばらくたたずんでいてもいいし、少し歩いてみてもいい。ぼんやりとしていてもいいし、気になるものがあれば近づき、触れてみてもいい。

 あなたは写真を撮ろうと思いつく。レンズを向けるのは、物かもしれないし、景色かもしれない。あるいは特に意味もなく、気まぐれに。遠くを見つめたり、立ち止まったり、振り返ったり。

 こうした一連の動作は、硬い/柔らかい地面や、大きい/小さい起伏、あるいは遠い/近い景色などの環境によって変化するものであろう。そして、こうして人と場の数だけ分岐する軌跡は、無数の身体、視線、行為の連続から、無数の位置、方向、距離の値として1つの時空間に標づけられていく。

視差的仕草(ブルー、レッド) 2016
Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 磯谷博史は、石を低反発マットレスの上に載せる。石はその重みに任せ、マットレスを歪める。物に触れ、ある場所に置くこと。硬い物と柔らかい物とが触れ合うこと。「仕草」──例えばここで、李禹煥がかつて関根伸夫を論じる際に用いたこの言葉が想起されるかもしれない。そして、李自身が岩を座布団の上に載せたことも。関根は、重い正方形の鉄板を巨大な円筒形のスポンジの上に載せる。そこで硬い質、すなわち鉄板は(支柱で範囲を限定されているにせよ)その重みに任せ、柔らかい質、すなわちスポンジを歪める。仕草は繰り返される。世界を対象化するのではなく、出来事の状態性において、世界のありようと出会うために。

 ならば磯谷は、そうした状態を写真に撮っているのだろうか。写真は円形の額に入れられ、再びマットレスの上に載せられる。ここでは、石とマットレスを覗く円形の額を、作庭師が位置づけた枯山水と円窓のように見立てることもできるが、それはリテラルに石がある/ない、マットレスが折れている/いない、という状態の差異を、写真の額の内と外の双方で、0と1からなる二進法のように認識させる仕組みとなっている。同時にここには、かつて決定された、そしていまだ決定されていない時空間のずれ、すなわち非-可塑的な過去と可塑的な現在の関係がある。

視差的仕草(ブルー) 2018
Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 けれども、額の内側の写真に窪みが写っていることに気づけば、その窪みは、過去において同形の額がマットレスを「凹ませた」形状であり、かつ現在において目前に置かれているまさにその額がマットレスを「凹ませている」形状でもある、ということがわかる。ここでの窪みは、円形の額が在る(1)/無い(0)のではなく、「在ったものが無くなる」という時系列──流れ──において不在の痕跡(-1)を示し、現在の「在る」から未来の「無い」へと、すなわち額の内と外を入れ子状にし、非-可塑的な過去を未来の不確かな可塑性へと分岐させ、そして重ね合わせるもの──原型──となるのである。

会場風景 Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 加えて磯谷は、これらの原型、すなわち石、マットレス、写真、額(額の位置はマットレスの右/中央/左)を3組置く際、さらに空間を仕切るように、壁を建築する。ある土地に壁を建てること。磯谷は空間的、そして動線において時間的に、イメージの内/外と外/内を離散的に建築していくのである。

《リリエーヴォ》(2014 〜18、左上)、《景色を拭う》(2016、左下)、
《漂泊の臨界》(2018 、右) Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 こうしたあり方は、セピア色の写真とペイントされた額の関係においても表されていよう。矩形の額の4辺は、それぞれ1辺(上/下/左/右)だけが着色されている。スプーンの入ったスープのイエロー(右)、ワイパーで拭き取られた塵のベージュ(右)、ぼろぼろになったシャツのホワイト(下)、ヘアコームが刺さる本のページのホワイト(下)、肘掛に巻かれたメジャーの目盛のマルーン(左)、椅子が置かれたカーペットのオーカー(右)、光に透けた葉脈のブラウン(右)、というように。それは、カラー写真の中にあり、そこから任意で抽出され、任意の位置へと移された、とある1色である。ゆえに、ここでの写真の色と塗料の色は、フレームの内/外で邂逅している、というよりも、いっぽうは退色し、いっぽうは発色し、むしろ別離していることとなる。

《白紙の本》(2016、左上)、《測る方法》(2018、左下)、
《柔らかさと硬さ》(2013〜18 、右) Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 もしかしたら、この時空間を遮る無数の壁(フレーム)について思考しなければならないのかもしれない。しかし、おそらく磯谷にとっては、こうした離散的な現在、すなわち時空間の仕切りを超えていこうとする移行こそが問題なのだ。

《花と蜂、透過する履歴》(2018、左)、《肉と光》(2018、右)
  Courtesy of the artist and Aoyama Meguro

 会場の奥では、蜂蜜で満たされた斗瓶の内側に入れられている集魚灯が、屈折した光を外側に鈍く放つ。かつてあった現在がカラー写真へ、そしてカラー写真が目前の額上のある位置で塗料へと置き換えられるように、透過できる要素だけが、フレームを超えて、歪みながら、移行している。

 時空間の関係性よりも、むしろ写真に撮られたことでリテラルに切り取られた時空間を1つの標とし、もう一度仕草によって、その関係が分岐していく、ということ。こうして「再び」分岐する軌跡が、無数の身体、視線、行為から、無数の位置、方向、距離の値として「別の」時空間へと標づけられていくことになる。つまり、離散的な時空間は、過去と現在、および現在と未来の関係よりも──流れを原型として──むしろそれぞれ2つの観測位置の差異における「視差(Parallax)」において、「仕草(Gesture)」を分岐させ、そしてそうした時空間のありようの中で連続させるためにこそある。

 このように磯谷は、様々なフレームを通り抜けていく。遠くを見つめたり、立ち止まったり、振り返ったり。離散的な時空間を連続させるために、そして分岐した時空間を歩行するために。

会場風景 Courtesy of the artist and Aoyama Meguro