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地域レビュー(関東):柴山陽生評「熱気の向こうの白と黒-ビッグ錠と風間サチコ異食なふたり」(藤沢市アートスペース)/コイズミアヤ「孤独な粒子」(obi gallery)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事では、柴山陽生(横浜国立大学)が関東圏(東京を除く)で開催された展覧会のなかから、藤沢市アートスペースで開催された「熱気の向こうの白と黒-ビッグ錠と風間サチコ異食なふたり」と、obi galleryのコイズミアヤ「孤独な粒子」の2つを取り上げる。

文=柴山陽生

「熱気の向こうの白と黒-ビッグ錠と風間サチコ異食なふたり」展示風景。ビッグ錠の原画(左)と風間の大作(右)が並ぶ 撮影=熊野淳司 写真提供=藤沢市アートスペース

漫画と美術──複雑な中性

「熱気の向こうの白と黒-ビッグ錠と風間サチコ異食なふたり」(藤沢市アートスペース)

 本展は、漫画家のビッグ錠と美術家の風間サチコの二人展である。「第1章 高度経済成長の熱気」「第2章 エネルギーの白と黒」「第3章 ふたりの視点 ‐ 戦争」の3章からなり、それぞれの章において、特定の主題と関連する両者の作品が展示されている。そこでは「異食なふたり」の制作物が、違和感なく並置されており、それが本展の最大の見どころのひとつだと思われる(なお、「本展の副題『異食なふたり』は、一見相容れない時代の両面を提示し続けるふたりの作家性と、味平[『包丁人味平』(ビッグ錠作画、牛次郎原作)]のグルメ対決になぞらえて名付け」(*1)たものだという)。

 とはいっても、両者の違いもまた明らかである。そのひとつは世代であり、例えば、高度経済成長期という同じ時代を扱っていても、1939年生まれのビッグ錠はそれを同時代人として描いているが、1972年生まれの風間はそうではない(『包丁人味平』の連載が始まったのは、風間の誕生の翌年にあたる1973年である)。

 そして、両者の違いとして決定的なのは、ふたりの作品のジャンルが異なるという点である。『包丁人味平』を含むいくつかの漫画は、連続するページの原稿(または複製)が展示されており、鑑賞者はそのストーリーを読むことができる。わたしが驚いたのは、漫画のわかりやすさとおもしろさである。当時を生きていない読者(わたしは2001年生まれである)をも一瞬で引き込むことができる漫画の力は驚異的だとしか言いようがない。

壁面には『包丁人味平』の原画が並ぶ 撮影=熊野淳司 写真提供=藤沢市アートスペース
左に見えるのはビッグ錠が自身の幼少期をモデルに描いた戦中~戦後の少年の話『風のゴンタ』の紙芝居 撮影=熊野淳司 写真提供=藤沢市アートスペース

 ビッグ錠の漫画と比較すると、風間の作品は、鑑賞者に多大な負担を強いるものである。展示された作品群は、ほとんどすべてが大型であるため、木版画でありながら、同時に「絵画的」だとも言えるだろうが、その意味で、風間の作品には鑑賞者を圧倒する力がある。しかし、それらはただ圧倒するのみならず、鑑賞者に読むことをも要求するのだ。例えば、《人外交差点》(2013)は、渋谷のスクランブル交差点を舞台に、近代日本における統制や弾圧の事例と結びつけて21世紀のインターネット社会を描いた、社会風刺的な作品のように見える。何が描かれていて、何を伝えようとしているのだろうと思い、鑑賞者は具体的な読解をはじめる。しかし、どれだけの時間をかけても、時代の混交性や、(大画面上に)描かれている要素の多数性のために、その作品全体の意味をはっきりと理解するのは不可能ではないかと感じられる。作品には、読むべき内容、ある種のストーリーが織り込まれているのだが、わたしは、それを具体的に読み解きえないのだ。この作品をよく理解できる者などいるのだろうかという疑念を抱きながら、細部から細部へと視線を移し、その意味について考えつづけ、じきに集中力が切れる。

風間サチコ 人外交差点 2013 木版画(パネル、和紙、油性インク) 180×360cm 撮影=熊野淳司 写真提供=藤沢市アートスペース

 ある種の単純化が許されるならば、そのような風間の作品の性質は、ポストモダン以後の芸術に特有のものだと言えるかもしれない。ハル・フォスターは、ロラン・バルトを参照しつつ、「複雑な中性」という概念を用いて、ゲルハルト・リヒターの作品について、次のように述べている。「リヒターの重要性は、[…]たがいに矛盾する複数の可能性を措定してみせるところ、そうした可能性がもつ謎めいた困難のひとつひとつにこだわってみせるところ、最終的にはそこに存しているのかもしれない」(*2)。すなわち、リヒターの作品とは、単一の意味やイデオロギーを伝達するのではなく、相互に矛盾しうる複数の意味(の可能性)を提示するものなのである。その結果、鑑賞者は作品自体の意味の決定不可能性に直面することになる。そのような作品は、マスメディアやマスカルチャー(例えば、漫画)などに対する抵抗として考えられており、バルトやフォスターはその点を評価しているようである。しかし、ひとはそのような複雑さに耐えられるのだろうか(*3)。

*1──展示室入口付近に掲示されている「ごあいさつ」より引用。
*2──ハル・フォスター「ゲアハルト・リヒター、またはフォトジェニックなイメージ」『第一ポップ時代──ハミルトン、リクテンスタイン、ウォーホール、リヒター、ルシェー、あるいはポップアートをめぐる五つのイメージ』中野勉訳、河出書房新社、2014年、233–235頁。
*3──風間が漫画の制作も行っているという点に言及しておきたい(本展の第3章には、『ドジョ戦記』(2010)が展示されている)。

科学と美術──零としての中性

コイズミアヤ「孤独な粒子」(obi gallery)

 本展は、化学や素粒子物理学をモチーフとしており、その分野の知識を持たない者(つまり、わたし)にとっては難解なところがある。例えば、《相対と縮尺》(2025)というインスタレーションは、「縮尺上の地球と太陽」「水素原子核と電子の距離」「スミレの匂い(α-ionon)の分子模型と地図」の3つの部分によって構成されており、展示室内の青いビーズ(1mm)を地球や原子核として見立て、それぞれの大きさに合わせた縮尺上において、地球と太陽の距離と、水素原子核と電子の距離と、α-イオノンを構成する原子核同士の間の距離とを比較するものだと思われる。わたしには、太陽としての赤いボールは展示室の外の庭に置かれていることや、地図を用いることで展示空間の有限性を超えた長さを示すという発想が興味深く感じられる。

コイズミアヤ 「相対と縮尺」の部分 2025 インスタレーション サイズ可変 撮影=コイズミアヤ

 だが、そこで示されている事実やその表現が興味深いものだとしても、それをたんなる科学的事実にすぎないとみなすこともできるだろう。先述のバルトの思想にしたがえば、その表現もまた、単一の意味を伝えるものだと言える。しかし、コイズミ自身の立場は単純ではなく、展示室に掲示されている「作者解説」には、「科学的な内容については、美術展示において、異分野の知識を見る人に知ってもらうことが主たる目的ではない」と記されてもいる。

 では、どう考えるべきなのか。おそらく、手掛かりは科学的事実としての決定不可能性の存在にある。本展のステートメントの一部を引用しよう。「原子核と原子核の間は地球と太陽の間よりさらにずっと遠く離れていることになる。空間がスカスカで、粒子がこんなに孤独で大丈夫なのか? ところが、[…]電子は確率の波の中を揺れ続けてそこかしこに居るらしい」。この文章において、コイズミは、「確率の波の中を揺れ続け」る電子について言及している──であれば、ある意味で、科学的事実には決定不可能性が内在していると言えるのではないだろうか。

 本展において、そのような決定不可能性に対する応答は、直接的に電子に関係する作品群においてというよりも、ドローイングの連作である《Knotted Atmosphere》(2025)など、周縁的に見えなくもない作品群において展開されているのではないか。それらのドローイングにおいては、最小単位である短線の連続と集合によって、絡まり合う形がつくられており、奇妙にも流動性と不動性が共存しているように感じられる。そこでは、何も具体的に表されていないにもかかわらず、何かが決定的に形づくられているのだ(*4)。いわば、それは決定不可能なものの形である。

コイズミアヤ Knotted Atmosphere 7 2025 紙に鉛筆 29.7cm×42cm 撮影=筆者
《Knotted Atmosphere 7》の細部 撮影=コイズミアヤ

 フォスターは先述のリヒター論において、バルトが「複雑な中性」のみならず、「零としての中性」についても論じていると示唆しているが、実際、バルト自身はある箇所において、「中性」を、意味の複数性ではなく、「心地よい無意味さ」と関連づけている(*5)。ここで彼の「中性」論や芸術論との関係性を詳細に検討する余地はないが、コイズミの作品群が、単一の意味でも複数の意味でもない別のなにかを示していることは確かだと思われる。なんらかの自明な事実やイデオロギーに依拠することなく存在する決定不可能なものの形を、いま、わたしは希望と呼ぶべきだろうか。

*4──その点は、ギャラリー内のもうひとつの展示室(和室)において展示された作品群にも当てはまる。
*5──ロラン・バルト「中性」『ロラン・バルトによるロラン・バルト』石川美子訳、みすず書房、2018年、196–197頁。なお、バルトの思想に二通りの「中性」が存在するという論点は、以下でも示唆されている。石川美子『ロラン・バルト──言語を愛し恐れつづけた批評家』中公新書、2015年。

編集部

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