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地域レビュー(東京):山﨑香穂評「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」「知覚の大霊廟をめざして──三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。本記事は、山﨑香穂(東京都写真美術館学芸員)が昨年12月に東京で開催された展覧会のなかから、「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」「知覚の大霊廟をめざして──三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」を取り上げ、テクノロジーやメディアの発展による人間を取り巻く環境や知覚の変化について考察する。

文=山﨑香穂(東京都写真美術館学芸員)

三上晴子《欲望のコード》(2010/11) 撮影=木奥惠三 写真提供=NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

人間中心主義を超えた先にある可能性

「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」(NEORT++)

NEORT++での「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」会場風景 ©NEORT

 かつてサイバーパンクが描いた世界はいまや空想ではなく、資本主義や国家が世界を統合し、地球全体を巨大なシステムのように扱いながら進歩してきた結果として、私たちの現実そのものとして立ち現れている。その変化が生活環境に及ぼす影響はあまりにも複雑で、制御不能な領域に達しているように思えるが、これは「人新世」といった議論が指摘するように、人間の経済活動の拡大と地球環境が切り離せなくなってしまった状況をうつしだしている。

 NEORT++にて「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」が開催された。本展は人間を唯一の主体とする見方を離れ、デジタル技術と自然環境が交差する複層的なイメージを探る。有機的プロセスと人工的システム、さらには人間と非人間のあいだに生じる関係性に着目し、私たちが生きる環境を再考する視点が提示される。「メディアエコロジー」を手がかりに、世界を倫理や政治、社会、生態が絡み合いながら更新され続ける場として捉えなおす試みが行われている。量子レベルの結びつきから資源管理の制度設計にいたるまで、異なるスケールの連関を横断的に可視化し、テクノロジーや自然を理想化することなく、人間中心主義を超えた新たな現実の可能性を問いかける。本展では10組の作家による作品が展示されているが、いくつかを以下で取り上げる。

 プリマヴェーラ・デ・フィリッピ(Primavera De Filippi)による《Arborithms》は、ブロックチェーン上だけに存在する人工生命体のシリーズであり、各個体は一定のアルゴリズムに基づいて生成される樹木の姿として表現される。その「遺伝情報」はNFTのトークンIDに組み込まれており、視覚表現に必要なすべての要素がオンチェーンのコードによって直接描画される。これにより、遺伝子型と表現型はオフチェーンへ依存することなく、不可逆的に結びつけられている。本作は人間との共生を前提とし、ユーザーはふたつの個体を交配させることで新たな個体を生成できる。交配には手数料が設定され、その一部は親個体の保有者に還元されるほか、繁殖回数に応じて増加する仕組みによって多様な遺伝的組み合わせが促進される。こうして《Arborithms》は、人間の経済的・美的判断を取り込みながら進化する、分散型の生命システムとして構想されている。

プリマヴェーラ・デ・フィリッピ《Arborithms》(2024) ©NEORT

 マット・デスロリエ(Matt DesLauriers)による《Latent Dispatch》は、機械の精密なドローイングと、人間の自由な発想からうまれる落描きとが交差する作品である。プロンプトをもとに機械学習システムは、膨大なデータから導かれた平均的な形へと収束する1本の線を描く。いっぽうで、鑑賞者がその場で残す即興的な落書きや線は、予測不可能で多様な表情をもつ。両者が並置されることで、規則性を追求する機械と、変化を生み出し続ける人間とのあいだに生じる緊張関係が浮かびあがる。 本作は、アルゴリズムが知覚や文化を形づくり、その出力を再び学習することで世界を均質化してしまう循環構造への批評でもあった。

マット・デスロリエ《Latent Dispatch》(2025) ©NEORT

 グレッチェン・アンドリュー(Gretchen Andrew)の《Facetune Portraits – Universal Beauty》は、ソーシャルメディア上で一般化したAI美化フィルターの働きを、あえて物質的な絵画表現として可視化する試みである。カスタムロボットは、デジタル空間では不可視のまま適用される「美」の補正を、油彩画の表面に筆跡としてなぞっていく。元となるのは、各地域における典型的な美のイメージであり、それらはひとつのアルゴリズムによって同質化されていく可能性を孕んでいる。加工前の顔と、AIによって理想化された顔が並置されることで、作品には現実の身体と欲望の投影が重なりあう二重の肖像が立ち現れる。そこでは、多様性が削ぎ落とされていく過程が表現されている。筆の揺らぎや滲みは、アルゴリズムが定義する普遍性と、生身の存在とのあいだに生じる緊張と矛盾を、刻み込んでいく。1990年から自身の肉体を使った整形手術のプロセスを「カーナル・アート(肉的芸術)」として発表しているオルランの存在を彷彿とさせる。様々な文化における美の基準に合わせて自らの身体を変容させるパフォーマンスを行いながら、国家や文化あるいは性差を超えて人間というアイデンティティに対する批判的な表現を行ってきたオルランの作品より約35年が経過しているが、AIを用いた今日の表現が《Facetune Portraits – Universal Beauty》からは読み取れる。

グレッチェン・アンドリュー《Facetune Portraits – Universal Beauty (Japan, Korea)》(2024) ©NEORT

 鑑賞者は、本展で展示される人間と非人間の関係性が多様な方法で絡みあっている状況を作品から読み取ることができ、デジタルと自然という2つの環境が重なりあう領域をたどりながら、人間を中心に据えた考え方から離れた、新たな世界のあり方を思い描くことができる展示となっていた。

*本稿執筆にあたって、「もつれのパターン / Patterns of Entanglement」展で配布されたハンドアウトを参照した。

身体の知覚をめぐる

「知覚の大霊廟をめざして──三上晴子のインタラクティヴ・インスタレーション」(NTTインターコミュニケーション・センター [ICC])

三上晴子《欲望のコード》(2010/11) 撮影=木奥惠三 写真提供=NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

 三上晴子の没後10年となる2025年。本展では三上が1990年代後半以降に発表したインタラクティブ・インスタレーション作品や、作品がアップデートを重ねてきた変遷、現在進行中の修復やアーカイブの取り組み、また作品のアーカイブ・データの活用事例なども併せて紹介している。

 三上がその活動30年ほどのなかで制作した作品は、それぞれ個人の手に渡ったものや、三上によって廃棄されたもの、美術館に収蔵されたものがあるが、技術環境の変遷に取り残され、データとして存在しているだけのものもある。規模が大きく作品設置に複雑な行程を要することから、インタラクティブ作品の展示の機会は限られている。2003年の開館以来、三上の制作と発表を断続的にサポートしてきた山口情報芸術センター(YCAM)には、三上がYCAMで発表した《gravicells [グラヴィセルズ]一重力と抵抗》(2004)、《欲望のコード》(2010)、《Eye-Tracking Informatics》(2011)の主要なパーツや機材が残され、《欲望のコード》や《Eye-Tracking Informatics》の再展示に向けたメンテナンスやアップデートを継続しており、それらの変遷もあわせて紹介されている。

三上晴子《欲望のコード》(2010/11) 撮影=木奥惠三 写真提供=NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
三上晴子《Eye-Tracking Informatics》(2011/19) 撮影=木奥惠三 写真提供=NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

 1990年代以降に展開された一連の三上のインタラクティブな作品は、人が外界と結びつく際に立ち上がる感覚の働きそのものを問い返す試みだった。身体の感覚を分断し、それぞれが身体に及ぼす作用を検証していくというアプローチ、あるいはメディア・テクノロジーを、従来は感知され得なかった領域を立ち上げるための感覚的インターフェイスとして位置づける視点は、三上の制作姿勢の根幹を成している。視覚や聴覚といった比較的明確な感覚から出発し、人間の知覚を段階的に分化させながら接近していくこと、そしてそのための手段としてインタラクションを用いるという考え方は三上独自の関心を形づくっていると言える。「知覚のインターフェイス」をテーマとした三上の作品のなかで最初に発表されたのは、視覚に焦点を当てた《モレキュラー インフォマティクスー視線のモルフォジー》(1996)、それに続く本展でも無響室で体験ができる聴覚と体内音に焦点を当てた《存在、皮膜、分断された身体》(1997)は、こうした身体の知覚をめぐる試みの一連の作品である。また、《gravicells―重力と抵抗》においては、重力を平衡感覚や運動感覚としてではなく「重力覚」として扱う姿勢も、このアプローチの延長線上に位置づけられると考えられる。

三上晴子+市川創太《gravicells[グラヴィセルズ]─重力と抵抗》(2004/10/25) 撮影=木奥惠三 写真提供=NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

 《gravicells―重力と抵抗》の作品では、重力とそれに対する抵抗力のような、相互に引き合う仮想の力の場が構築されている。鑑賞者はパネルが敷き詰められ構成された床面を歩くと、身体の荷重や傾き、移動のリズムといった要素が床下のセンサーによって読み取られ、その応答が線の乱れや音の変化として立ち現れる。そこに関与するのは、個々の体験者の動きだけではなく、同じ場を共有する他者の存在、位置情報として取得される会場の座標、さらにアルゴリズムの力が折り重なり、作品が変化していく。こうして鑑賞者は、作品を眺める立場から離れ、力の配置を更新する構成要素のひとつとして組み込まれていく。その結果、普段気にかけていない重力という存在に改めて気づかされると同時に、身体の知覚が重力の前提の上に組み立てられていることを、感覚的に突きつけられることになる。

 三上が「眼は単に視るものではなく、耳は単に聴くものではない。すなわち、耳で視て、鼻で聴いて、眼で触ることが可能である」(*1)と述べているように、先端的なメディア技術を媒介としながら、鑑賞者は自らの知覚がどのように構成され、他者や環境と関係づけられているのかを本展で展示されている作品群からも体感的に意識させられるのだ。

*1──本稿執筆にあたって、『SEIKO MIKAM1、三上明子記録と記憶」(馬定延/渡期世編者、NTT出版、2019)を参照した。

編集部

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