「青野文昭 延命する現在/地縛する過去/分岐する未来」(ギャラリー ターンアラウンド)
宮城県仙台市にあるギャラリー ターンアラウンドにて、青野文昭(1968〜)の個展「青野文昭 延命する現在/地縛する過去/分岐する未来」(2025年12月23日〜1月10日)が開催された。青野は、浜辺に漂着したモノや廃棄されたモノを回収し、使用痕や欠損箇所を手がかりに造形することで、モノの存在性を変化させていく。その行為を「なおす」と位置づけ、仙台を拠点に長く活動を続けている。近年の活動の充実は、2025年の瀬戸内国際芸術祭において粟島の空き家一軒を使用して発表された作品《帰り着く家ー瀬戸内粟島古家滞留積層脳海図像・2025》などからもうかがえるだろう。
ターンアラウンド(通称:タナラン)で年末に開催される青野の個展は、今回で13回目となる。毎年恒例の催しであり、年の瀬が迫る頃には、タナラン主宰の関本欣哉とともに青野の1年の活動を対話形式で振り返る報告会も行われている。こうした年中行事のようなアートイベントの存在は、地方都市におけるコンテンポラリー・アートの実践において極めて重要なものだ。地元を拠点に国内外の広域で活躍する現役作家の仕事を定点観測できる機会であり、鑑賞者の意見交換の場でもあり、そこから批評の醸成も期待できる。また、恒例行事のように繰り返されることが必ずしもマンネリズムにつながるわけではない。少なくとも私が見るかぎり、青野はこの年末の個展に力点を置いており、毎回挑戦的な展示を重ねている。
さて、本展のタイトルは2025年の社会風刺のように読める。持続可能性が謳われ、民主主義や資本主義の真っ当な部分がかき消えないよう延命に躍起になる先進諸国。そして、地縛霊のように各地で噴出する前世紀の負債と積年の怨念。世界の覇権が転換期に入り、この数年、避けがたく直面させられている現実の相貌は、「延命する現在/地縛する過去」にふさわしい。まさに社会認識を直截に示しているかのように思えるのだが、そのように時事と短絡的に結びつけた理解は、展示を見ると早計であったことに気づかされる。青野が行う「なおす」にはいくつかのサブカテゴリーがあり、各作品名は「なおす」に続いてそれらが連なることで構成されている。延長、合体、代用、融合、連置、連鎖などであるが、今回の作品では新たに「地縛」が加わった。青野はあくまでも「なおす」の新たな展開を模索しているのである。

「なおす」対象となるモノを、青野は「欠片」と呼称する。欠片をなおす、すなわち欠片を用いた造形行為の主たる作業は切削であり、もとの欠片から新たな欠片を発生させることでもある。青野いわく、これまで発生した欠片については、概ね廃棄せざるを得なかったようだ。しかし今回は、欠片から発生した新たな欠片に「領土」を与えることで、まとまりのある形態を成立させている。
欠片とは、この世界における私たち個人の存在や精神の見立てでもあるだろう。個である欠片の主観からすれば、もとの欠片は領土を奪われている。しかし、新たな欠片が獲得した領土の形態は、もとのそれに酷似してもいる。新天地においてもなお過去に束縛されているというわけだ。ただし結果的には、それによって1つの物体として保たれている。「なおす」の中に、こののっぴきならない関係性を「地縛」として存立させたことが、今回の新展開である。過去による地縛こそが現在を延命させ、未来を分岐させるのだと、断定的に言わんばかりの意思表明。これまでの 「なおす」では横軸へと拡張する概念が主流であったが、青野の企図する「総合的な復元」には、やはり縦の時間軸を示す言葉が必須なのだろう。しかし「地縛」とは恐ろしげな過去の呪いのようでいて、その実、カルチベーション=地耕に基づく「文化」であり、それこそが私たちという欠片を包摂し、個として立たせている根源的な地盤への意思なのだと、私は理解した。


「YUTAKA SONE 【Power from】曽根裕 作品展 by ヒメコレ」(SARP 仙台アーティストランプレイス)、「M’s コレクション 展」(ギャラリー ターンアラウンド)、「Moving Image in Contemporary Art 現代アート映像作品上映+トーク」(even)
仙台市内では、2026年の年始から個人コレクションを紹介する展示が相次いで開催された。SARP 仙台アーティストランプレイスでの「YUTAKA SONE 【Power from】曽根裕 作品展 by ヒメコレ」(1月10日〜18日)、タナランでの「M’s コレクション 展」(1月13日〜18日)、evenでの「Moving Image in Contemporary Art 現代アート映像作品上映+トーク」(1月22日〜25日、企画=長内彩子[Survivart])である。ここでは、コレクションされた作家や作品そのものではなく、個人コレクターと社会の交点や環境に触れてみたい。
まず、それぞれの展示場所についてだが、SARPは、仙台で長く活動してきた「ギャラリー青城」を地域の美術家たちが引き継ぎ、2010年から共同で運営されているアートスペースだ。「喫茶frame」が隣接し、額装の工房も併設されている。先にも紹介したタナランは関本欣哉によって2010年に開廊され、仙台におけるコンテンポラリー・アートの重要な拠点となっている。関本のオーガナイズによりタナランの別館として開かれたevenは、場所を移しながら継続し、現在は書店「裂け目」を併設するアートスペースとして運営されている。


SARPやタナランは、新聞社主催の公募展による階層構造への依存や、美術団体への所属による様式化など、とかく閉鎖的になりがちな仙台の美術界を解放し、表現者の自律性を確立しようとしてきた高山登(1944〜2023)や青野文昭ら作家の意思の表れなのだ。無論、そうした意思すらも新たな閉鎖性の苗床となる恐れはある。しかし、一世代下の関本らに受け継がれ、さらに東日本大震災以降の表現者の往来を経ることで、風通しのよさと寛容さの幅を広げつつあるのが現状である。

今回、SARPとevenでは会社員である姫本剛史氏のコレクション「ヒメコレ」が公開され(*1)、タナランではM氏のコレクションが披露された。両名とも仙台在住の熱心なコンテンポラリー・アートのコレクターである。M氏のコレクションは1960年代の前衛からもの派、ポストもの派に該当する作家を中心とし、姫本氏のコレクションは、90年代以降の現在形の作家に拠っている。期せずして高度経済成長期以降の日本美術を通覧するような展開となったが、興味深いのは、M氏と姫本氏に交流があり、共同でコレクション展を行った実績もある点だ。両氏の世代の違いによって通史的な展示もできるし、同一作家の作品があれば並置して比較することもできるだろう。

さて、個人コレクションを観る際には、博物館の蒐集方針に相当するコレクターの意思や視点を推測する楽しみがある。M氏のコレクションは、彼にとっての美術表現の解を探求し積み上げられた成果であり、骨太なモダニストの顔つきをうかがわせる。他方、姫本氏のコレクションはより今日的であり、ギャラリーを通じた購入にとどまらず、作家との直接的な交流を経て収蔵に至ることもあるようだ。両者とも自らの世代に近い作家を対象としているように見えるが、作品そのものの審美性に拠る蒐集と、作品を介した関係性を記憶・保存する蒐集といった違いも指摘できそうである。
じつのところ、こうした受け手側の関心の変遷こそが、日本の美術史そのものなのかもしれない。そして、蒐集作品を通して蒐集者の意思が逆に照らされることで、個人のなかに保存された時代の価値観が解きほぐされる。時を経るごとに個人コレクションにはそのような社会性が充満していくのであり、同時代性の提示以上に難題である近過去との接続が、コレクション展示によって実現する。そうした意味でも今回は貴重な機会であった。そして皮肉にも、美術館に頼ることなく、コレクターと場の運営者や地域のキュレーターとの交流によって、肩肘張らずにこうした企画が実現していることこそ、仙台の豊かな文化性を示している。
*1──evenでの「Moving Image in Contemporary Art 現代アート映像作品上映+トーク」では、ヒメコレのほかに黒木コレクションおよびヨシコレの作品も上映された。




























