伝統を悼むためではなく
「日本画アヴァンギャルド KYOTO 1948-1970」(京都市京セラ美術館)
展示室で筆者は、作品に引き留められるように、なかなか先へ進むことができずにいた。膨大な作品と関係資料が並ぶ会場には、戦後の京都で「新しい日本画」を切り拓こうとした作家たちの熱気が、いまなお色濃く漂っている。阪神間における前衛美術の活発な動きといえば、研究会「現代美術懇談会」(ゲンビ)(1952〜57頃)や具体美術協会(具体)(1954〜72)がよく知られているが、それ以前に京都の日本画界では、既存の枠組みを横断的に問い直す思考の「場」がすでに形成されていた。

本展は、創造美術(1948〜51)、パンリアル美術協会(1949〜2020)、ケラ美術協会(1959〜64)という、日本画の前衛運動を担った3つのグループの動向を軸に構成されていた。彼らが目指したのは、従来の日本画を、そしてその制度の内部や制作の前提条件そのものを問い直すことであった。保守的な画壇への異議申し立てを出発点としながらも、彼らの関心は次第に、「世界とどう向き合うか」「現実をどう捉え直すか」「素材とはなにか」といった問いが、具体的なかたちをもって展開していく。
展示室では、作品と関係資料が丁寧に並置され、当時の彼らの思索を深めた時間と果敢に挑戦した実践が行き来する過程を浮かび上がらせていた。伝統的な表現と戦後の前衛的な試みが隣り合って展示されることで、作家たちの動向の変化が立体的に伝わってくる。新しい日本画を目指した彼らの実験的精神と、その醸成に費やした時間のなかで、いかに多くの挑戦が積み重ねられてきたのかをあらためて考えさせられた。
その背景として重要なのが、戦後に盛んに論じられた「日本画滅亡論」である。技巧に偏り現実から遊離しているという批判は、伝統をただ否定するためのものではなく、日本画がどのように生き続けることが可能かを問い直すための起点であった。制度の見直しや現実との接続、国際的な視野の獲得といった課題が、批判のかたちを取りながらも、日本画の新たな再生の方向を指し示していたのである(*4)。

創造美術の秋野不矩による《少年群像》(1950)は、自身の息子をモデルに新しい造形表現を人体表現によって追求した作品で、現実のモチーフを描くことで現代性を導き出そうとする姿がうかがえる。パンリアル美術協会は、しばしば挑発的な宣言文のイメージが先行しがちだが(*2)、大野俶嵩《緋 No.24》(1964)からは、素材や視覚の再編に強い関心を寄せていたことが見えてくる。さらにケラ美術協会の榊健《Opus.63-4》(1963/1990)では、折り曲げられた支持体の布が平面という前提を揺るがし、日本画の抽象が向かい得た別の可能性を示している。それはジャンルの拡張というより、表現の前提条件をいったん解きほぐす行為に近い。


こうした試みは、伝統を悼むためではなく、その先に立ち上がる日本画の可能性に向けて、地盤を自ら築こうとする運動であった。本展は、彼らの動向を振り返り捉え直す機会を提供すると同時に、その連なりを現在へ手渡す場として、重要な意義を示していた。
*4──福田里和「戦後初期における「日本画滅亡論」の展開」『日本画アバンギャルド KYOTO 1948-1970』展図録、京都市京セラ美術館、2026年
*5──「パンリアル宣言」パンリアル美術協会、1949年5月(『日本画アバンギャルド』展図録、京都市京セラ美術館、2026年、67頁所収)
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