ポロック1作品で約295億円の世界
──2026年3月に発表された「The Art Basel and UBS Global Art Market Report 2026」では、2025年の世界の美術品市場の規模は前年比4パーセント増の596億ドル(約9兆7600億円)となりました。山下さんはこのレポートはご覧になっていると思いますが、普段のお仕事のなかで、このレポートをどのように参照し、活用してきたのでしょうか。
山下有佳子(以下、山下) 私はつねづね、アートは社会を映し出す鏡だと思っています。アートについて知る際にも、アートはアート界だけで完結しているのではなく、社会や経済、そのときどきの経済状況や動向と連結していると考えています。
このアートマーケット・レポートは、各国や各地域の成長だけでなく、その地域が置かれている現在の状況や動向とあわせて解説されています。私自身もそれを読みながら、いま私たちが生きている社会や、そこに付随する価値観がどのようなものなのかを、アートやアートマーケットを通して考えています。

──中東情勢をはじめ、世界情勢に不安があるなかで、アート市場は成長路線にあるとご覧になりますか。
山下 現在、日本の年間のアート市場の規模は約1000億円と言われています。それに対して、今年5月、ニューヨークのクリスティーズでは、一夜に行われた2つのイブニングセールだけで、11億2112万6500ドル、現在の為替で約1830億円を売り上げました。なかでも、ジャクソン・ポロックの《Number 7A》(1948)は1億8120万ドル、約295億円で落札されています。

ニューヨークのアートウィークは、アメリカが世界のアート市場全体でも非常に大きなシェアを占めていることもあり、その年のアートマーケットの動向を見るひとつのベンチマークとされています。そのなかでも、数値化されて見やすいオークションの動向が好調であるということは、オークションだけでなく、アート市場全体が再び成長路線に戻ってきている可能性があると感じています。
──世界のアート市場はこれまでアメリカが牽引してきました。アメリカ、イギリス、中国の3ヶ国で、アート市場全体の76パーセントを占めています。いっぽう、日本のシェアは世界市場の1パーセントで、第7位です。ここからは、その「1パーセント」という数字にフォーカスしていきたいと思います。
日本市場の「1パーセント」をどう読む?
──日本のアート市場のシェアが1パーセントという数字を、山下さんはどのように受け止めていますか。
山下 文化大国としての日本、そしてGDPの規模と比べると、世界市場におけるシェア1パーセントという数字は、まだ小さいという印象を持っています。いっぽうで、この数字を単純に悲観的には見ていません。現在、アートにかぎらず、世界の市場、金融市場は非常に不安定になっています。そのなかで、とくに日本のアート市場は安定しているという評価を受けています。過去2年を見ても、市場が縮小している国や地域があるなかで、日本は安定して数字を保ってきました。とくに2024年については、日本単独で見ると約2パーセント成長したという数字が出ています。
さらに以前の話をすると、そもそもこのグローバル・アート・マーケット・レポートのなかで、日本は「Others」、つまり「その他」に含まれていました。「1パーセント」という数字として示されることさえなかったのです。長期的に見れば、この数字は日本に成長の余地があることを示しているのではないかと感じています。

──アート・バーゼル香港のディレクター、アンジェル・シアンルーさんは以前、美術手帖のインタビューに対し、日本市場について「アジアでもっとも成熟した市場のひとつ」という言葉を使っています。これは、国内のコレクター層や美術館、制度的な基盤が市場を支えてきた結果とも言えるのでしょうか。いっぽうで、日本市場は国内志向が強いという指摘もあります。山下さんはどのように感じていますか。
山下 私は、日本はもともと「文化蓄積型」の市場だと思っています。現代美術の市場が成立する以前から、古美術や日本美術などを愛で、それを支えてきたコレクターや美術館が数多くあります。そしてなにより、国際的に高く評価されるアーティストが数多く存在します。そういう意味では、日本は自国のなかで文化をしっかりとつくり、それを守ってきた場所だと思います。
ニューヨークやロンドンは、もともとアートにかぎらず、世界中の資本が集まる「金融都市型」のマーケットです。それに対して、日本は文化蓄積型の市場として、比較的長期的にアーティストを支えるという意味で、成熟した市場であると私は考えています。
しかし、改善できる部分があるとすれば、これまで培ってきた文化やアーティスト、アートを国内の文脈のなかだけで完結させてしまっている点です。国際的な接続がやや弱い市場とも言えるのではないでしょうか。
6パーセント成長した韓国との違い
──日本はそのような状況ですが、隣国の韓国と比較したいと思います。韓国は成長率が高く、年率で6パーセント成長しています。日本との大きな違いは、どこにあると感じていますか。
山下 韓国はこの10年間で、行政と民間、そして韓国が持っているカルチャーシーンが非常にうまく連動してきたと思います。例えばK-POPや、そこに付随するマーケット形成も含めて、この連動こそが急速な成長につながったのではないでしょうか。例えばフリーズ・ソウルが誘致された際には、韓国政府が民間や海外と連動して取り組みました。いっぽうで、韓国ウォンの下落や政治情勢などを踏まえると、高い成長率を示す反面、市場の安定性には懸念もあります。
マーケットを押し出していくためには、税制などの整備も必要です。アートは物流の世界でもあります。作品を移動させなければ、市場は成立しません。そのために必要なインフラ整備をめぐる、行政と民間の連動という点では、韓国と比べて、日本には今後の伸びしろがあると感じています。

──韓国ではセカンダリーマーケットや、アート系のファンドも発展しているのでしょうか。
山下 韓国には、もともと長い歴史を持つ、強いセカンダリー市場があります。また、フリーズ・ソウルが始まるのをひとつの契機として、国内外、とくに欧米のギャラリーが韓国・ソウルに支店を開くようになりました。アート以外の分野でも、韓国は、これは私の印象ですが、欧米志向が強い場所だと思っています。留学経験なども含め、国際的に通用する語学力を持つ人が多いように感じます。
──海外ギャラリーの進出は、日本でも徐々に増えてきてはいますが、まだ韓国ほどではないという印象があります。
山下 そうですね。ただ、政治や経済がグローバルに不安定な時代を迎えているなかで、日本が持つ安定性や、長期的にアートを守ってきたという点が、改めて世界から評価され始めています。そこを掘り下げていくことで、日本市場の成長の可能性が見えてくるのではないかと思います。
現場から見た日本市場の変化
──山下さんは、サザビーズ、ギャラリー、アートフェアと、様々な場所で経験を重ねてきました。アート市場と向き合ってきたなかで、現場から感じる近年の日本のアートマーケットの変化とは、どのようなものでしょうか。
山下 日本には戦後の「具体」「もの派」をはじめとする美術を筆頭に、代々世界に通用するアーティストたちが存在してきました。近年、それらが国際的なアートマーケットや文化的な文脈に、きちんと接続され始めたと感じています。その背景には、アーティスト自身が世界へ出ていき、「日本人だから」というよりも、世界のどの国のアーティストとも平等な立場、同じ土俵で表現し、評価され始めたことがあると思います。
また、最近では、フリーズやアート・バーゼルといった国際的なアートフェアに出展する日本のギャラリーも増えてきました。アーティストを支える人たちも、国際的な場に対等な立場で出ていくようになった。この変化を、とくにこの5年間で感じています。
──先ほど話に出たアート・バーゼル香港のディレクター、アンジェル・シアンルーさんも、日本のギャラリーやキュレーターによる国際的な活動が増えていると指摘しています。山下さんも、その変化を現場で実感していますか。
山下 例えば今年5月のニューヨーク・アートウィークでは、世界最大手のギャラリーのひとつであるデイヴィッド・ツヴィルナーで、日本のアーティストを中心としたグループ展「Statics of an Egg」が開催されました。また同ギャラリーは2025年、以前から所属する草間彌生に続き、日本人画家の西村有を新たに所属作家として迎えています。このように、日本人アーティストが海外のギャラリーで長期的な評価を受け始めていると感じます。


いっぽうで、Art Collaboration Kyotoを通じて感じたのは、日本が世界に出ていくだけでなく、この数年間で海外のギャラリストやアート関係者が日本そのものに強い関心を持ち、頻繁に日本を訪れるようになったことです。海外の側から日本へやってくるという動きも、はっきりと見えるようになりました。
──コレクターについては、どのような変化がありますか。
山下 若いコレクター、新しいコレクターが増えてきています。これは私自身の感覚ですが、以前の日本では、他人の評価や周囲の目を気にしながら、アートを買ったり選んだりする傾向がありました。具体的には、ある特定のアーティストが「良い」となったら、「では自分も買おう」となる。買う対象が一極化しがちだったのです。それが近年、コレクターの価値観やアートの買い方が、良い意味で多極化してきたと感じています。
また、政治や経済が不安定な時代だからこそ、安定した価値を求める富裕層が増えているように感じます。これまでアートを買っていなかったものの、その周辺にある嗜好品などを楽しんでいた方々が、アートを買い始めるという動きも見られます。そうした人たちは、あくまで自分のライフスタイルのなかでアートを楽しんでいきたいという感性を持っている場合が多い。非常に健全で、長期的にも定着していく可能性のあるアートの買い方が生まれてきたと感じます。
──一時期は、投機的な買い方が目立つ時期もありました。そこから脱却したような状況なのでしょうか。
山下 必ずしも投機的な買い方がなくなった、あるいは別のものに置き換わったということではないと思います。そうした観点でアートを買う人がいるいっぽうで、アートの買い方そのものに多様性が生まれてきています。そのことが、アート市場の成長にもつながっているように感じます。
日本市場の拡大に必要なものとは?
──大きな問いではありますが、日本のアートマーケットが今後さらに拡大していくためには、まず何が必要だと思いますか。
山下 アートや文化への投資、あるいはアートや文化を楽しむことは、本来、余裕があるときだけに行うものではありません。まさにいま私たちが生きているような不安定な時代、あるいは有事だからこそ、意味があることだと思っています。文化にしっかりと投資する。それは、一人ひとりが自宅にアートを取り入れて心を豊かにすることでもありますし、国が国際的な外交なども視野に入れ、文化に投資していくことでもあります。
様々な意味で、日本が「文化投資」という意識をもう少し持つこと。そこに成長のきっかけがあると思います。同時に、それを支えるものも必要です。いま、日本ではアート市場の成長が起きていると私は思っています。その中心には、もちろん、もっとも大切な存在であるアーティストがいます。そして、アーティストを支える人材が必要です。具体的には、素晴らしいアーティストやアートを国際社会に接続するため、ただバイリンガルであるだけでなく、バイカルチュアルであり、文化を翻訳し、ストーリーテリングができる人材です。さらに、国際的な催しや展覧会、イベントを、一定の規模で運営し、つくり上げていくことのできる人材も必要です。
またアートは物流も大きな要素となるため、志を持ったギャラリストたちが、よりチャレンジしやすい環境を整えていく必要があります。そのための税制や、保税地区をはじめとするインフラを整備することが重要だと思います。
──税制は非常に大きな課題です。そこが変われば、アート市場の流れも大きく変わる可能性があります。先のアート・バーゼル香港のディレクターも、日本市場が次の段階へ進むためには、国際的なアートフェアや市場のネットワークとの接続を、さらに強めていく必要があると指摘しています。では、実際にはどのようなかたちがいいのでしょうか。例えばフリーズ・ソウルは、欧米型のフェアをソウルに導入したものだと思います。日本もそれを模倣するべきなのか、あるいは違う方法があるのでしょうか。
山下 そこが、もっとも重要な点だと思います。現在、グローバル市場の中心が欧米にあるからといって、欧米型の仕組みをそのまま日本に持ち込むことが、日本の成長につながるとは思いません。むしろ、日本には世界に通用する、日本にしかないローカリティや文化があります。まずはそれを理解し、その特性を生かしながら、日本に合ったかたち、日本でしかできない戦略をつくっていく必要があります。
個人的に、以前から実現したいと思っていることがあります。先ほど文化投資という話をしましたが、アートには人と人をつなぐ力があります。また、日本には京都をはじめ、固有の歴史や文化を持つ場所があります。そうした場所には、世界の有識者や富裕層、政治に関わる人々をも引きつける力があります。
例えば、ダボス会議の文化版のような場を日本で開催できるのではないでしょうか。日本の場所や文化を生かしながら、世界各国から人々が集まり、対話し、日本から世界へ発信していく。そのような取り組みが、日本のこれからの成長につながると思います。
アートを楽しむ一人ひとりにできること
──アート市場を盛り上げていくためには、行政やアート関係者、そしてアーティストが取り組くんでいくことはもちろんですが、アートが好きな私たち一人ひとりにできることはなんでしょうか。
山下 アートや文化の価値は、アートと人、そして、その場所に根付いた史が交流することで生まれるものだと思っています。そこで新しい文脈が生まれることが、その後の価値につながります。ですから、まずは私たち個人がアートを楽しむこと。そして、それを自分のなかだけにとどめるのではなく、誰かと共有することが大切だと思います。
アートを通じて、自分自身や自分の国のアイデンティティを掘り下げ、それをほかの人と共有しながら話していく。人とつながり、さらにそれが大きくなって、社会とつながっていくことが重要なのではないでしょうか。
──もうひとつ、作品を実際にひとつ買ってみること、アートが自分の所有物になり得るのだと実感する経験も非常に大切なことではないでしょうか。日本では、美術館には行くけれども、作品を買ったことはないという人も、まだまだ多いと思います。
山下 私は、これからの世界では、何かを長く楽しむことや、時間をかけて向き合うという価値観そのものが大切になっていくと思います。おっしゃるように、アートを買うこと、つまりアートを所有することは、アートと一緒に暮らしていくことでもあります。長い時間をともに過ごすことで、アートフェアや美術館を歩きながら、一瞬だけ作品を見ることでは味わいきれない何かが生まれます。その感覚を楽しむことが、これから私たちが生きていくうえで、とても大切になるのではないかと思います。



























