等閑視されてきた実践に焦点を
芳賀菜々花主宰「『牢』vol.3」(WHITEHOUSE)

注目すべきは、先行世代を中心とする既存のアートスペースや人的ネットワークと協力しながら、そこに還元されない独自の発表の場をつくり出すことで、パフォーマンスを中心に特異な実践を救い上げようとする若手による試みが、2025年東京で、「ノン」以外にも出現したことである。2000年生まれのアーティスト・芳賀菜々花による「牢」がそれである。
美大出身ではない芳賀の出発点は、現代アートへの関心ではなかった。クラブやバーのように人が集まり熱を帯びる場への興味から、そうした場のひとつとして新宿のWHITEHOUSEに通い始めたのが最初の契機だという。運営の卯城竜太(Chim↑Pom from Smappa!Group)をはじめとするWHITEHOUSE周辺の人々との交流を深めるなかで、芳賀は次第にパフォーマーとしての活動を開始し、2025年4月には「牢」の第1回を開催するに至る(*7)。「DJ、ライブ、パフォーマンス、ダンス、インプロ、展示、インスタレーション、滞在制作、物販、チャリティ、調理、その他もろもろ、"生"がぶつかり合う、一夜限りのイベント!」と銘打たれたその企画は、以降も継続的に開催されることとなる。なお、本稿の以下の記述は、芳賀の初個展「前だけ見て進もう My Way」(WHITEHOUSE、2025年12月20日〜1月25日)にあわせて開催された「『牢』vol.3」(WHITEHOUSE、2026年1月20〜25日)の鑑賞経験に基づく。
この企画の際立った特徴として、まず参加者の構成を挙げなければならない。「vol.3」においては、開催期間を通じて会場内に作品を展示するもの(*8)と、各開催日の所定の時間中にパフォーマンスを発表するものとに役割が分かれていたが、後者においては、作品と鑑賞者のあいだに一定の距離が前提とされる空間(ホワイトキューブ的な展示室や、舞台と客席が分かたれた劇場)を主たる発表の場としてきた表現者と、鑑賞する主体と鑑賞される対象とが截然と分かれるのではなく、場全体が一体化して盛り上がっていくことを前提とするライブハウスやクラブを主戦場とする作家たちが混在していた(*9)。この混淆性は、芳賀がライブハウスやクラブの熱気を現代アートと等価なものとして経験してきたという来歴に起因するものと考えてよいだろう。
ライブハウスやクラブを主戦場とする表現者の存在や、それによって形成される客層は、「牢」の受容空間の性格を大幅に規定する。パフォーマーは、鑑賞者から切り離された距離のある作品として静かにまなざされることを許されず、見るだけではなく動きもするものたちからなる沸騰する場の中心を担う何かへと変貌してゆく(*10)。前2回の会場が幡ヶ谷のFORESTLIMITというクラブ/ライブハウスであったのは、そもそもこうした受容空間をつくり出すことそれ自体が芳賀の狙いであったことの証左と見てよいだろう。そうした表現者が引き続き参加していたことに加え、これまでの「牢」の積み重ねによって形成された客層が会場を埋めたことで、現代アートとの親和性が高い空間であるWHITEHOUSEを舞台とする「『牢』vol.3」においても、同様の受容空間は一定以上に維持されていた。パフォーマーへの歓声や野次が飛び交う事態が散見されたことからもそれは明確である。


受容空間の変容は、そこに引き出された表現者の実践それ自体にも作用しうるし、芳賀はそのような作用を狙っていたとも考えられる。作品と鑑賞者の距離が保たれた場に慣れた表現者たちを、熱狂する集団の中心にいることが求められ、これまでの実践がそのままでは成立しないかもしれない状況に置くこと(*11)。そこから思いがけない何かが生じることへの期待が、「牢」の混淆性を支える動機のひとつとなっているのだ(ライブハウスなどを主戦場とする表現者たちに対しても、普段共演する表現者たちとは性格を異にするものたちと共存させることで、何かしらの作用を引き起こすことが目指されていたとはいえるだろう)。わたしが鑑賞したものでいえば、三野新の《無敵》(2025)は劇場で上演されていても違和感のないメタ演劇のリーディング公演という趣で、会場全体の熱気とはいささかトーンが異なっていた。観客もまた、基本的には静かに耳を傾けてはいたものの、いつでも集合的な熱狂へと切り替わりうる場の圧力が、つねにそこには漂っていた(実際、三野に続く田村虹賀、羽鳥直人の上演においては熱狂が生じていた)。そのような雰囲気が、三野の実践をわずかに変調させていたように思われる。

さらに、あらかじめ依頼した作家たちによる枠に加えて、アンデパンダン形式で発表が行われる時間を導入していることもまた、「牢」について考えるうえで重要である(なお、わたし自身、そこに自作を持ち寄っている)。第2回に引き続き第3回でも実施されたこの試みには、おそらく二重の意図がある。ひとつは、作品というかたちにはまだ結晶化していないものの、何かしらの表現を試みてみたいと考えてはいる人々に対して、人前でパフォーマンスをする経験を気軽に積める機会を与えることだ。それによって、表現者としての実践を前進させるために手を貸そうとしているのだ(*12)。もうひとつは、事前の審査や選考を経ない有象無象が集まり、めいめいが好き勝手にふるまう制御不可能な空間のなかから、思いもよらない興味深い表現が出現することへの期待である。

「ノン」と「牢」はそれぞれ異なる文脈から出発してはいるが、どちらも先行世代の蓄積に依拠しながら、それに還元されない場を若手が自らつくり出そうとする試みという点で共通している。パフォーマンスを中心に、通常の展覧会形式では等閑視されかねない実践に焦点を当て、表現者を普段とは異なる条件へと放り込むことで、思いがけない何かを引き出そうとする構造もまた、両者に通底する。こうした試みが2025年の東京に同時並行で出現していることは、さしあたり記録されてよいだろう──そこから具体的にどのような実践が生まれ出てくるのかはいまだ未規定であり、「ノン」および「牢」の真の意義を測ることができるのは、まだ先ではあるだろうが。
*7──この記述は、「前だけ見て進もう My Way」の開催に際して発表された卯城による説明文に依拠したものである。
*8──小野まりえ、海生、tsubasanaito、矢野央祐、米澤柊、田中勘太郎。*9──大きく分ければ、花形槙、吉田萌、前川友萌香、布施琳太郎、田村虹賀、三野新が前者、水泥公園東京、zzzpeaker、ギザドド、honninman、宮崎隼門、羽鳥直人、野流が後者に属していたといえる。
*10──パフォーマーと鑑賞者のこうした関係は、フランスの作家・俳優・演出家であるアントナン・アルトーの残酷演劇が目指すものとして、フランスの哲学者、ジャック・ランシエールが(いささか図式的に)整理する様態に近しいように思われる。「観客は、差し出されるスペクタクルを平穏に検討する観察者の立場から引き抜かれなければならない。そして、スペクタクルを統御するという幻想を失って、演劇行為の魔法の円のなかに引き込まれなければならない。こうして、観客は理想的な観察者の特権と引き換えに、自らの完全な生命力を手中に収める存在の特権を得るのである」(ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013、7〜8頁)。むろんランシエールは、このような仕方で演劇のスペクタクル性、すなわち、舞台上にあるものから距離を取って静かにまなざすという鑑賞様態を除去することに対してきわめて批判的ではあるのだが。
*11──芳賀は第2回における布施琳太郎の参加について、「ギャラリーでお見かけすることが多かった布施さんを地下のハコに閉じ込めてパフォーマンスさせてみたかった」と述べている。この発言は、上記の芳賀の姿勢を典型的な仕方で示している。
*12──ここで興味深いのは、芳賀が最初に作品を発表したのが、「TOMO年越美術館 2023-2024 いる派 PRESENTS 身体アンデパンダン24時」(トモ都市美術館、2024)であったということだ(これも前掲の卯城の説明文による)。これは、「いる派」を標榜し展示空間に常駐する作品を発表してきた小寺創太が、同じくアーティストのトモトシの協力のもと、2021年から3年にわたり開催していた、大晦日に一日中パフォーマンスを行い続ける作家を無審査で募る企画であった。芳賀がそこで発表したのは、《24時間、ワンチャン絞死する状況で過ごしてみる》(2024)という作品だった。この来歴をふまえれば、芳賀はここで、小寺らが自分に対して果たした役割を、今度は自らほかの人々に対して演じようとしているように思われるのだ。
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