「ひげ」と「場」──都市に立ち上がる身体のかたち
本稿では、2つの展覧会──須田日菜子「空間のひげ」(TAKU SOMETANI GALLERY)と、KINJOがキュレーションしたグループ展「場–junction–」(parcel)を並置して読み解きたい。両者は方向性こそ異なるが、いずれも都市のなかで背景化されがちな事象や、軽んじられてきた身体そのもの、そしてそれを代替するメディウム(キャンバス、素材、空間)を前景化する展示だったように思える。
須田日菜子「空間のひげ」(TAKU SOMETANI GALLERY)
内から外へ出る

奇妙なタイトルである。「空間」と「ひげ」という組み合わせは通常の言葉の連なりから外れており、聞き慣れない。しかし展示を見ながらこの言葉を反芻していると、不思議と腑に落ちる感覚があった。
須田は、自身が制作によく使用するスプレーを「表面を超えて伸び出てくるものであり、空間に作用するもの」(*1)と捉え、それを身体から伸びるひげに喩えている。その比喩を空間に重ねることで、須田は絵画をたんなる平面ではなく、身体の延長として提示する。実際、須田の作品におけるスプレーは画面内に留まらず、空間全体に拡散し、キャンバスや壁を象る境界線にもなっていた。ここで絵画は閉じたイメージではなく、空間に介入する出来事となる。
スプレーを用いている特性上、ストリートアートの文脈で語ることもできそうである。しかし須田の関心は、都市の壁に痕跡を残すことや公共空間への直接的な介入ではない。むしろ自らの身体がどこまで空間へと拡張しうるかという問題である。つまり、スプレーは抵抗の手段というより、身体が外部へと伸び出すための器官のように機能しているのである。

話は変わって、須田の作品には人間の身体がモチーフとして頻出する。その身体はつねに匿名的に描かれる。曰く須田の関心は人物像の表現ではなく、「身体というものの在り方」そのものに向けられているのだという(*2)。
さらに須田の作品において重要なのは、通常は背景化されがちな素材(段ボール、綿布、廃材など)を、たんなる支持体ではなく作品の一部として扱い、前景化していることだ。例えば、この展示のなかでも白眉である段ボールの作品は、テープの剥がされた跡やテープのしわが絵画におけるいわゆる描線の役割を果たしている。そのテープを貼ったり剥がしたりといった身体的な行為の痕跡を段ボールに見出し、作品化している点で須田のメディウムへの眼差しの独特さが垣間見える。

ここで須田の作品に描かれる身体と、作品に使われるメディウムはイコールの存在として見ることができる。身体とメディウム、それぞれの存在そのものを秘匿化、透明化するのではなく前面に押し出す対象として捉えているのである。つまり、須田にとって描かれる対象と描くメディウムは地続きなのである。
「場–junction–」(parcel)
外を内に持ち込む

こちらもタイトルから話を始めよう。junctionとは、交差点あるいは分岐点といった意味合いを持つ語である。そのため、「場」とjunctionを語義的に単純な等号で結ぶことはできない。しかし、今回キュレーターを務めたKINJOの実践をたどると、両者の関係がより具体的に見えてくる。
KINJOは出展作家である大塚諒平とともに、荒川での野外展示「Riverside pocket」を行ってきた。そこでは、人々の生活動線のすぐ横に作品が置かれ、偶然その作品に出くわした鑑賞者、その作品と周囲の環境との緩やかなつながりが生まれた。つまり、「場」とはあらかじめ存在する場所ではなく、人・作品・環境が交差する出来事として立ち上がるものであるということを、このタイトルは意味しているのだろう。本展は、この野外での実践をギャラリーという室内空間に移し替えること──すなわち「屋外の出来事としての場」を屋内で再構成すること──を出発点としていた。
美術館やギャラリーのような制度的空間の外に作品を置いているという点ではランド・アートとの類似性を見出せるかもしれない。作品が特定の場所の意味や偶然性に依拠し、鑑賞が時間や出来事とともに変化する点で、場所(site)をめぐる問題意識を共有しているとも言える。しかし、ランド・アートは作品の自律性を重視していたのに対し、KINJOと大塚の実践の力点は、風景を造形的に改変することではなく、人・作品・環境のあいだに一時的な関係を立ち上げることに置かれている。

その点を踏まえると、なるほどたしかに展示空間がいわゆるホワイトキューブでの作品の陳列には見えない。それもあって、どの作品がどのアーティストのものかが一見して判別できなかった。どれが作品として個別に成立しているのかもわからなかった。会場で配布されたフロアマップを凝視してようやく作者がわかる。特段作品同士のテイストが似ているわけではないにもかかわらず、鑑賞者はどこか秩序を揺さぶられる感覚に陥る。だがそれはむしろ、誰が何をつくったのかが見えにくいまま無数の痕跡に囲まれて歩くという、都市そのものの経験が再現されていたのではないか。
いくつかの作品が広告や商品を主題としていたことも示唆的である。都市において看板やパッケージは、誰かの表現というよりも、風景そのものとして立ち現れる。主体が見えにくいマーチャンダイジングが私たちの視界を満たすように、本展の作品も、場における存在感として提示された。
また、展示会場の随所に現れるナメクジのフィギュアも象徴的だった。ナメクジは移動した場所に粘液の痕跡を残す存在である。KINJOの作品に頻出する「目」のモチーフと重ねて見ると、ナメクジは絶えず変容する都市という巨大な有機体を見つめる観察者であると同時に、自らも痕跡を刻むアクターとして浮かび上がる。
こうした都市の痕跡という視点を通じて、本展は「場」を固定された場所ではなく、絶えず生成される関係の集積として提示していた。KINJOのキュレーションは、このような場の理解を前提に、異なる関心や手法をもつ作家たちを緩やかに接続していた。

自身の幼少期の遊び場であった川を抽象的に表現した大塚諒平の作品は、身体を通した記憶と環境の関係を問う。岡田洋坪はメディア文化において量産されるイメージを用い、都市や人々の集合的記憶へと接近する。鈴木夏海は音楽・動物・性の要素を重ね合わせ、多層的な時間と空間を立ち上げる。そして木村祐太は、自身の造形技術と自転車屋としての経験を生かし、生活と手仕事が地続きになったサドルの造形を提示する。
これらの作品が同一空間に並置されることで、展示室は完成された作品の陳列場ではなく、都市の混沌がそのまま移植されたような場となった個々の作品は異質でありながら、互いに干渉し合い、重なり合う。
都市の痕跡は、私たちが日常的に見過ごしてきた人間の身体の動きや都市の脈動を浮かび上がらせる。そして、匿名性に満ちたメトロポリスのなかで、私以外の人間も確かにこの都市を生きているという実感をもたらしてくれる。私はそれに思いがけず勇気づけられたのだった。
恣意的であることは承知のうえで、この2つの展示を並置してみたい。須田が身体の内側から外部へと伸び出す力を可視化したのに対し、「場–junction–」は都市の外側に漂う痕跡や記号、他者の気配を展示室という内側へと引き入れた。だが両者に共通していたのは、身体と都市の境界を固定せず、むしろその境界をゆるやかに溶かすことである。ひげが身体を空間へと拡張するなら、junctionは空間を身体へと浸透させる。いずれも、見過ごされてきたものを可視化するだけでなく、私たち自身の感覚をずらし、私たちが「在る」ということを実感させる展示だったと言えるだろう。
*1──須田のInstagramの投稿より引用。
*2──「空間のひげ」展覧会ステートメントを参照。



























