愛知県内で開催された2つの展覧会、アートオブリスト2025 ワタナベエイジ展「Morning Monsters / W Eiji」と、手塚好江個展「In/Out-between」。これらを通じて「みる」ことにつきまとう不確かさと対峙するきっかけを得た。本稿では、この2つの展示が提示した視覚と認識の狭間にある豊かさを探ってみたい。
「確かな不確かさ」をみる
アートオブリスト2025 ワタナベエイジ展「Morning Monsters ⁄ W Eiji」(大倉公園)
美術館のない愛知県大府市において、同時代の美術や文化芸術を発信する試みとして2016年より継続して開催されてきた「アートオブリスト(Art Obulist 大府芸術目録)」。10年目を迎える今回、プロジェクトの生みの親であるアーティスト・渡辺英司と、同姓同名の科学者・渡辺英治の2人による展覧会が開催された。芸術と科学という異なる分野に横断して掲げられたテーマは「知覚」。国登録有形文化財の建築を有する大倉公園(*1)には、2人の「策士」による多彩な仕掛けが施された。

科学者・渡辺英治は神経科学を専門とし、長年「錯視」の研究に取り組んできた。錯視とは、「動いていないものが動いて見える,色や明るさや大きさが現実とは異なって見えるなど,対象の実際の物理的なパラメータと視覚とがずれる現象のことである。あるいは,そのずれていることを認識すること」(*2)を指す。
展示会場には、同氏が錯視の研究で用いる装置が並ぶ。静止画でありながら大小様々な渦巻きが回転し続けるように見える北岡明佳「蛇の回転錯視」(2003)や、視点によって、見える図形が丸から四角に変貌する構造物の「変身立体錯視」、回転によって色や図像の見え方の変化を体感する装置「ベンハムの独楽」などだ。来場者はこれらを手に取り、視点を動かし眺めることで、視覚情報と脳内処理のあいだに生じる「ギャップ」を、文字通り身をもって体感することとなる。それは視覚の不思議や面白みをわかりやすく伝えるのみならず、情報の伝達にはズレが含まれ得ることを示し、「みる」行為の不確かさを浮き彫りにしていた。

知覚の「ズレ」はアーティスト・渡辺英司が手がける風景の異化を通じて多様に展開する。生垣に自生するかのように配された小さな飛行機たちの群れに導かれ、次なる会場へと向かう。数寄屋風の瀟洒(しょうしゃ)な造りの屋内で一際目を引くのは、天井に達しそうなほどに巨大な樽だ。梯子を登り、そのなかを覗き込むと、空色に塗られた樽の内部にたくさんの飛行機が閉じ込められた光景が広がる。作家が20年前に見た夢(*3)を起点とする《空の夢》(2024)は、輸送手段である「飛行機」を貯蔵のための「樽」に閉じ込めるという、機能とスケールの倒錯が見て取れる。


空をも見下ろす俯瞰した視点とは対照的に、床一面に人工芝が敷き詰められた空間では、来場者が床に這いつくばって芝を生育させる《常緑》(2004)が待っている。ペンチで人工芝を引き伸ばすことで、不揃いな「雑草」をつくり出していく。根本を掴み、ゆっくりと上に引っ張ることでビニール製の草が伸びる(途中で切れてしまったりもする)。手入れによって雑草が繁茂していくという、本来の庭仕事とは真逆のプロセスを経て、人工物はかえって「自然な」気配を帯びていく。どこか「噛み合わない」ユーモアに満ちた作品群は、心地よい違和感を伴いながら、見慣れた物事を捉え直す眼差しを与えてくれる。

「Morning Monsters(明けのモンスター)」と題された本展は、視覚の分野で飽くなき探求を続ける2人のワタナベエイジが捉えた「閃き」に満ちていた。身体を使い、感覚を疑い、知覚のズレを確かめる。凝り固まった認識が緩やかにときほぐれるような体感とともに、視覚を通じて広がる世界の奥行きと、固定観念に縛られない多様な視座を軽やかに示していた。
*1──日本陶器(現ノリタケリミテド)初代社長・大倉和親の「大倉別荘」跡地。敷地内にある茅葺門と休憩棟は平成27年に国の有形文化財に登録された。
*2──渡辺英治「深層学習による錯視研究の現状」『基礎心理学研究』第41巻 第1号、2022年。https://www.jstage.jst.go.jp/article/psychono/41/1/41_41.7/_pdf/-char/ja(最終閲覧 2026年1月8日)。
*3──渡辺英司によるテキスト「空の夢(ドローイング)」より。「20年近く前に、大きな味噌樽のような樽の中を上から見下ろす夢をみた。見下ろすと目下には太陽のようにまぶしい中、無数の飛行機が飛んでいた。樽の底を見下ろしたところ、飛行機より高い場所にいたのだ」。
手塚好江個展「In/Out-between」(愛知県立芸術大学 サテライトギャラリーSA・KURA)
続いて取り上げる手塚好江(1994〜)の個展「In/Out-between」は、「見えづらさ」と「見えてしまうこと」の揺らぎによって、多層的な物語を想起させるものであった。
手塚は、絵画の制作過程で通常は塗りつぶされて消えてしまう下絵や下地層など、本来「見えなくなってしまうもの」の可視化をテーマとしている。その画面は、膠(にかわ)絵具で描かれた画面を下地材で一度まっさらに均し、その上から再び油彩を重ねる工程を経てつくり出される。下地層の白を基調とする手塚の絵画は、展示空間の白い壁面に溶け込むように朧げに存在しながら、その重層的なイメージを静かに主張していた。

作家は、この構造を用いることで、自身を取り巻く環境や身近な出来事に感じる「二重性」の整理を試みているという。その意図は、《部屋の中のダイイン》(2024)に顕著だ。画面の表層には衣服が描かれているが、距離を置いて眺めると、横たわる人物らしきシルエットがぼんやりと見出せる。近接して観察すると、絵具を細く絞り出した立体的な線によって衣服の輪郭、皺が描かれていることに気づく。震え、膨らみ、途切れながら作家の手の動きを伝えるその線は、たんなる筆致を超えて「境界を分け隔てる」という意思を強調するメディウムとして機能している。

興味深いのは、この隆起した線から染み出した油分が下地層を透過させ、隠されていた下層のイメージを逆説的に露わにする点だ。分け隔てるための線が、その背後にある「ダイイン(die-in)」(死んだふりをして抗議する意思表示)の場面を浮き上がらせる。遮蔽と表出が同時に起きるこの構造は、表面化しない内側の葛藤や出来事を物語る。
こうした「線引き」への関心は、触覚的な試みにも及んでいる。机の上に多数の小石が並べられた《生活の模倣(ものまね)》(2025)では、石鹸に彩色を施した「にせものの石」がいくつか混じっている。これらを識別する手立ては、実際に手に取った時の重さや肌触り、あるいは「水で濯ぐこと(溶けるか否か)」だ。天井から投影されたさざなみの映像は、この「濯ぐ」という行為を視覚的に示唆し、たとえ「表面」が似通っていても、事物の「内実」が決定的に異なることを提示していた。

「層を重ね、線を引く」行為は、物事を二分する際につきまとう逡巡にも通じる。手塚の画面は、あえて「見えづらく」することで、揺らぐ心情や曖昧さをひとつの矩形のなかに封じ込めている。レイヤーの相互影響によって見え隠れするイメージを通じて、表面の背後にある内実や、見えないながらも確かに存在する層を丁寧に見つめ直すこととなった。
2つの展示に通底するのは、認識のズレや、見えなくなっているものを「確かな不確かさ」として提示する視座だ。「わかる」という言葉が「分ける」を語源に持つように、私たちは効率的に物事を判別し、分別することに慣れきってしまっているのかもしれない。両展は、その境界線から切り捨てられ、見過ごされがちな物事に再び目を向けるための、確かな契機となった。





























