名分とポリフォニー──多言語政治における主体の生成
あなたは、自分が誰だと思いますか。
私たちは日常のなかで、国籍、母語、政治的立場、ジェンダー・アイデンティティ、職業、学歴といった一連のラベルによって自分を定義することに慣れている。しかし、それらは本当に私たちを表しているのだろうか。まるでアンケートのように並べられた項目によって、私たちは本当に自分自身を見つけることができるのだろうか。
名は正されても、言は順わない
東京都写真美術館で開催された「恵比寿映像祭2026:あなたの音に|日花聲音|Polyphonic Voices Bathed in Sunlight」(2月6日〜23日)の内覧会を訪れ、美術館に入ろうとしたとき、入口の警備員が日本語で何かを話しかけてきた。口調や視線から、内覧会への招待があるのかと尋ねているのだと察した。私は日本語がわからず、英語で返すしかなかった。その数秒間、私は受け入れられることも、排除されることもない、宙吊りのような真空状態に置かれた。やがて受付スタッフが呼ばれ、ようやく私の身分は確かめられ、正当な名目を得て館内へと入ることができた。
華人文化においては、『旧約聖書』のようにバベルの塔以降の言語多様性の起源を探るよりも、むしろ言語が秩序のなかで果たす機能を重視する傾向がある。孔子の言う「名正則言順(名正しからざれば則ち言順わず)」は、ラベルの正当性への強い執着を示している。「名」と「実」が正しく対応してこそ、秩序とコミュニケーションは成立する。儒教文化はたしかに東アジア社会に深く影響してきた。しかし興味深いことに、今日の高度に多様化した社会において、私は「言が順わない」まま「名が正される」という経験をしたのである。
この「名の正当性」への依存と断絶は、本展タイトルにも見て取れる。日本語、台湾語、英語が併置されたタイトルは、それぞれ異なるイメージを喚起する。いったいどの「名」が正しいのか。さらに台湾出身の私が「日花聲音」という四文字を見たとき、台湾語ではなく中国語としてそれを読んでしまった。この読みの差異は、「名は正されても言は順わない」という状況を再び浮かび上がらせる。漢字という同一の記号体系を共有していても、背景が異なれば、意味を共有できるとは限らない。
展示空間において、FAMEMEのドリアン香水はどのような匂いなのか。鶴巻育子の写真において、視覚障害者は世界をどのように見ているのか。侯怡亭の刺繍に刻まれたアルファベットは、どのように発音されるべきなのか。私たちはおそらく、完全に「名正言順」な答えを与えることはできないだろう。
しかし、それでもいいのではないか。
























