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名分とポリフォニー──多言語政治における主体の生成。謝以恭評「恵比寿映像祭2026:あなたの音に|日花聲音|Polyphonic Voices Bathed in Sunlight」【3/3ページ】

「名分」をめぐる権力関係とポリフォニー(衆声の喧騒)

 儒教文化が深く根づく東アジアにおいて、「名分」がもたらす序列や資格の観念は、たしかに重視されてきた。私たちもまた、それを社会構造の安定を支える基盤として、ある程度肯定している。しかし同時に、「名分」はつねに権力関係を帯びており、人々が社会的期待や道徳的責任を引き受けることを要請する概念でもある。

 そうしたことを考えながら、私は昨年、台北の「台湾現代文化実験場 C-LAB」で開催された、キュレーター・荘偉慈(チョアン・ウェイツー)による展覧会「Sounds of Babel―もし私たちの言語が……(如果我們的語言是……)」を思い出す。本展は、哲学者ミハイル・バフチンの提起した「ヘテログロシア(多声性/言語的多様体)」の概念を援用し、本来は言語学的文脈にあった「多声」を、多文化的多様性や社会的アイデンティティの流動性を象徴するものへと拡張していた。バフチンのいう「ヘテログロシア」とは、たとえ単一の言語の内部であっても、そこには複数の社会的声、立場、価値観、そして権力関係が同時に存在しているということである。それはすなわち、同一の文化それ自体がすでに多元的であることを意味するのではないだろうか。ましてや、異なる文化同士においては、なおさらである。台湾の批評家・曾哲偉(ツェン・ジョーウェイ)は「Sounds of Babel」展のレビューにおいて、現代社会が「多元・平等・包摂」という主題に絡め取られている現状を指摘し、「ヘテログロシア」は必ずしも自動的に肯定的な多元主義を指し示すのか、と問いかけた

 この問いに対し、アンジェリカ・メシティが今年の恵比寿映像祭に出品した《The Rites of When(時にまつわる儀式)》(2024)は、きわめて示唆的な視覚的応答を与えている。ほとんど闇に包まれた空間の大きなスクリーン上で、異なる文化的背景をもつ身体の動きが儀式のように交錯し、絡み合う。一見すると緩やかで混沌とした場面のなかで、それぞれは互いに応答している。それは単一言語の対話ではなく、言語を超えた文化そのものが「多声」に響き合う場である。リズム、呼吸、姿勢、身体は、流動のなかで次第にある種の秩序を生み出していく。混沌とは無秩序なのではなく、まだ単一の権威によって名づけられていない秩序なのだ。

アンジェリカ・メシティ《The Rites of When(時にまつわる儀式)》(2024)の展示風景 Courtesy of the Artist and Galerie Allen,Commissioned by the Art Gallery of NSW 撮影=新井孝明

 このような見方を台湾社会へと引き戻すならば、「名正言順」は多声のなかでいかに機能しているのだろうか。

 台湾の現実は決して単声ではない。原住民族、閩南系漢人、客家系漢人、戦後に四川・湖南・湖北・江蘇などから移住してきた人々、さらに近年増加し続けている東南アジア系の移住者たちが、多言語・多文化な社会をかたちづくっている。歴史のなかで、私たちは幾度となく「正名運動」を展開してきた。原住民族の名称の回復、性的少数者に関わる語彙の更新、地域言語の再記述と制度化などは、その一例である。

 バフチンのヘテログロシアの観点から見れば、言語はつねに権力が作用する場である。誰が名づけるのか。誰の発音が標準とされるのか。誰の文字が教科書に載るのか。これらの問いの背後には、言語を通じた権力の配分と再配分がある。また、恵比寿映像祭の展覧会図録の付録において、キャメロン・L・ホワイトが丹念に観察しているように、戒厳令解除後、言語の自由度が高まり、地方言語教育の空間が広がったこともその一端である。国の行政機関である教育部は台湾語、客家語、台湾手話、そして南島語族に属する原住民族諸語の教材を整備し、初等・中等教育へと導入した。それは、中国語と単一の「国語」とを結びつけてきたイデオロギー的連関を徐々に緩め、異なる声が聞かれ、書かれる可能性を切り開いた。

 こうして見ると、正名運動は表面的には「名正言順」を目指しているようでありながら、実際には、多声が交錯する言語空間のなかで「正統」とは何かを再交渉する営みである。それは多声を消し去ることでも、単一で安定した秩序へ回帰することでもない。むしろ、多声のただなかで既存の権力構造を揺るがし、抑圧され、周縁化されてきた声が浮上する余地を開くことにある。「正名」とは、唯一の答えを確定することではなく、多数の声が共存することを前提に、その正当性のための空間を拓く行為なのである。

 台湾の正名の歩みと比べると、日本の国会がアイヌ民族を先住民族として公式に認めたのは2008年のことであった。しかし、真の問いは「正名すべきか否か」ではなく、正名の後にもなお対話が可能であるかどうかにあるのではないか。もし名称が確立された瞬間に、疑いえない固定的な記号として凍結されるならば、それは新たな単声的秩序にすぎない。逆に、正名後の名称が開かれたままに保たれ、応答や議論、再解釈を許容するならば、それは真に対話的な言語となる。差異を承認しつつ、意味を生成し続ける場として存続しうるのである。

 この文章は、私が中国語で書き、それを他者に委ねて日本語へと翻訳してもらったものである。言語をまたぐ翻訳の過程において、情報の欠落や意味のずれが生じることは避けられないと、私はよくわかっている。いまこれを読んでいるあなたは、どこかでわずかな違和感やためらいを覚えただろうか。

 恵比寿映像祭2026の展示作品のひとつ、スーザン・ヒラーの「ミッドナイト・セルフポートレート」シリーズ(1987)で示されたように、私たちは誰もが、自らが属する文化、社会、家族、そして生の経験によって深くかたちづくられている。ヒラーが模索したのは、国籍や職業、あるいは外在的な社会的ラベルを超える新たな言語であり、「あなたは誰か」という問いをほかならぬあなた自身に返す試みだった。その答えは、日々の生活のなかで、一つひとつの選択のなかで、そして他者との関わりのたびに、あなた自身が与えていくものなのだ。

 多文化社会のなかで生まれる異議や反発が、どれほど潮のように寄せては返そうとも、最終的に私たちが決められるのは、他者にどう向き合うかという態度であり、異化された存在とどのような行為を通して関係を結ぶかという選択である。互いを真空のような隔絶状態に置き続けることもできる。しかしまた、あの警備員のように、隔たりに気づいたその瞬間に手を差し伸べ、対話を成立させる媒介を探すこともできるのである。

編集部