第三の「非/当事者」性にむかって
2011年3月11日の東日本大震災と、その後の福島第一原発事故によって、言論の場、あるいは表現の場において、それ以前とは大きく異なる、きわめて重要な意味を帯びることになった言葉として、「当事者」「当事者性」という語が挙げられるだろう。
当事者の、被災者の声を、いかにして届けるのか。どうしたら、被災者の、当事者の側に立てるのか。当事者ではない者たちにとって、当事者性とは、けっしてそこに至ることの出来ない(至ることなどあり得ない)絶対的な壁であると同時に、僅かなりとも漸近してゆくべき標でもあった。
だがしかし、「当事者を代弁する」という構えのなかに、すでにして誤謬と欺瞞が宿っており、代弁し得た、などと思った途端に、それは恥ずかしい嘘になってしまう、それでもなお、当事者ではない者が、当事者ではないということを引き受けつつ、当事者のために、はたして何が出来るのか。
ひとつの答え方は、むろん、当事者自らが語る、語ろうとする、その手助けをすることだ。ごく単純に言えば、たとえばインタビューである。多くの報道やドキュメンタリーで、われわれは当事者たちの証言や発言を聞いた。それらは貴重でかけがえのない声であり、語りであり、言葉だった。当事者たちに、被災者たちに、津波で家族を喪った者たちに、カメラを、マイクを向け、その姿を、表情を、声の震えを、感情を、記録して後に残すこと、誰かに届けること。誠実で真摯な意図のもとに、そのような試みが、いくつもなされたし、いまもなされている。
そのとき重要視され、また重要視するべきなのは、出来得る限り直截に、余計な回路抜きに、当事者と向かい合うことだ。代弁、という善意を帯びた詐術に陥らないためには、そうするのがおそらくは正しい。
だが、『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)の小森はるか+瀬尾夏美は、そうはしなかった。
断わっておくが、小森はるかは単独での監督作『息の跡』(2015)『空に聞く』(2018)では当事者に直接、カメラを向けているし、瀬尾夏美も当事者への聞き取りやインタビューを数々行ってきた。むしろ2人はそうしたこれまでの取り組みの延長線上に、ほとんど論理的な必然として『二重のまち/交代地のうたを編む』での試みを見出したのだ。
時間と労力のかかったプロジェクトである。『二重のまち』とは、1本の映画の題名であると同時に、そこに至る一連のプロセスと、それを含む何度かの展示の名称でもある。
まず、やはり小森+瀬尾の共同名義での作品『波のした、土のうえ』(2014)でも描かれた、岩手県陸前高田市の津波に流された土地の上に嵩上げ工事によって築かれた新しいまち、その「2031年」(すなわち震災から20年後の未来)を舞台とする、4つのモノローグからなる物語『二重のまち』(2015)を瀬尾が執筆した。それから、4人の「旅人」──古田春花、米川幸リオン、坂井遥香、三浦碧至──が選ばれた。4人はいずれも小森+瀬尾と同じく被災者=当事者ではない。旅人たちはそれぞれに陸前高田に赴き、その土地を自分の足で歩き、その土地に生きる人々からさまざまな話を聞き、そうした見聞(を小森のカメラは逐一つぶさに撮影していく)と、そこから得た感慨や思考を各自持ち帰って、ほかの旅人たち、そして小森+瀬尾と共有していった。そうしたフィールドワークとフィードバック、ディスカッション等を重ねたうえで、最後に4人の旅人は『二重のまち』を朗読する……。
小森+瀬尾が、あえて「当事者」とのあいだにいくつもの回路を挟んでいることは明らかである。『二重のまち』という物語=フィクションと、「旅人」という媒介者=報告者=朗読者の起用と関与によって、ある意味では「当事者性」から遠ざかっているとさえ映るかもしれない。だがしかし、このような特異な方法でしか探求し得ないものがあるのではないか。それは「当事者」を「代弁」するのでも「当事者」自身が「証言」するのでもない、いわば第三の道である。それは、どうしたって、どこまでいっても「非当事者」であるしかない者が、真の当事者がそうであるのとは別の意味/別の仕方で「当事者」になること、すなわち、他ならぬ「非当事者」であるという事実の当事者としての自己に徹底して向き合うことである。これはけっして迂遠な方法ではない。熟慮の末に辿り着いた、誠実かつ真摯な方法なのだと思う。
『二重のまち/交代地のうたを編む』を観る、わたしたち非当事者は、やはり非当事者である旅人たちが、あの「出来事」と、まっさらな、まさに更地のような状態から出会い、自らの非当事者性をしかと抱え、何度もその厳然たる事実を反芻しながら、それでも少しずつ、やがては不可逆的に変化していくさまを目撃する。旅人は当事者の代弁者ではなく、わたしたちのアバターなのだ。そして4人は、やはり非当事者であるしかないことをよくよくわかっている瀬尾夏美が──当事者たちとの触れ合いをもとにして──書き上げた、ささやかな、だが感動的と言うしかない四つの物語を、やはり非当事者であり続ける小森はるかのカメラが映し取った、陸前高田を往く自分自身のイメージに重ねて、自らの声で読み上げる。そのとき、彼ら彼女らを通して、映画を見つめるわたしたちもまた、これまでとは別の意味での「非当事者」になっていくのであり、そして同時に、その変容の体験と新たな認識の「当事者」になっているのである。
「非当事者」であることの「当事者性」。そんなものになんの意味があるのか。と訝る向きもあるかもしれない。ならば問おう。「当事者」でないことにも「非当事者」であることにも、頼らずおもねらず諦めず、それでもあの「出来事」にかかわり続けようとするのなら、いったいほかにどんなやり方があるというのか?
いま、新たな「出来事」の渦中で、誰もが「当事者」になってしまう可能性を持っているいま、それでもつねに「当事者/非当事者」の線引きがなされるしかないいまだからこそ、多くのことを考えさせてくれる作品だと思う。