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[弘前の前川建築を訪ねて(前編)]前川國男の建築が息づく街、弘前。その近代建築の保存と運用の実践に迫る

日本近代建築の礎を築いた建築家のひとり、前川國男。ル・コルビュジエに師事し、日本のモダニズム建築を牽引した彼の足跡は、青森県弘前市に8件の建築群として現存している。全国的に近代建築の老朽化と解体が喫緊の課題となるなか、なぜ弘前では、前川の1930年代のデビュー作から晩年の作に至るまでが、いまなお現役の公共施設として活用され続けているのか。本稿では、弘前市、市民発の団体である「前川國男の建物を大切にする会」「旅する弘前」への取材から、前川建築が半世紀を超えて継承されてきた背景にある、保存と運用の具体的な仕組みを紐解く。 ※5月5日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

取材・文=大橋ひな子(編集部)

木村産業研究所の外観 写真提供:一般財団法人木村産業研究所

前川國男の第二の故郷、弘前

 前川國男(1905〜86)は、日本近代建築を牽引した建築家のひとり。1928年に東京帝国大学工学部建築学科を卒業後すぐ、渡仏してル・コルビュジエに2年間師事した。坂倉準三、吉阪隆正とともに「コルビュジエの日本人三大弟子」のひとりに数えられる。帰国後はアントニン・レーモンドの事務所を経て、1935年に前川建築設計事務所を設立。東京文化会館、東京都美術館、神奈川県立音楽堂、京都会館など、日本の近代建築史を語る上で欠かせない作品を数多く手がけた。

 そんな前川による建築が、デビュー作から最晩年の作品に至るまで、弘前市内に8件現存している点に注目したい。具体的には、木村産業研究所(1932年)、弘前中央高等学校講堂(1954年)、弘前市庁舎(本館:1958年/新館:1974年)、弘前市民会館(1964年)、旧弘前市立病院(1971年)、弘前市立博物館(1976年)、弘前市緑の相談所(1980年)、弘前市斎場(1983年)が挙げられる。その多くが市民の生活に密着した公共施設であり、市民のあいだでは「ゆりかごから墓場まで前川建築」と称されるほど親しまれてきた。しかし、出身地ではないこの地に、なぜこれほど多くの前川建築が存在しているのだろうか。

木村産業研究所の玄関の天井。前川建築の特徴のひとつである鮮やかな赤色がポイント 写真提供:一般財団法人木村産業研究所

 その背景には、2つの重要なつながりがある。ひとつは、前川の母・菊枝の実家が弘前藩士を輩出した田中家であったという血縁上の縁である。もうひとつは、渡仏中の前川が叔父の佐藤尚武を介し、当時フランス駐在武官であった弘前出身の木村隆三と親交を深めたことにある。この出会いが契機となり、前川は木村からの依頼によって、日本における自身の第一作となる「木村産業研究所」を弘前の地に建設することとなった。

 現在、改修中の施設(旧弘前市立病院)を除けば、1932年竣工のデビュー作を含めた全施設が「現役」として活用されている事実は、近代建築の保存という観点から見ても特異である。本稿では、なぜこれほど多くの前川建築が取り壊されることなく継承されてきたのか、弘前で実践されている近代建築の保存に対する姿勢と、具体的な取り組みについて紐解いていきたい。

行政による公共施設マネジメントと前川建築の保存

 弘前市内の前川建築の保存・改修計画は、都市計画課の調整により、弘前大学や建築関係の有識者による知見を反映させながら立案される。対象は公共建築のみならず、民間の建物全般に及ぶ。保存の方針が定まれば必然的に改修の必要が生じるが、そこで最大の課題となるのが多額の費用負担である。多くの場合、市の財源のみでこれらを賄うことは困難であり、国の補助金活用が不可欠となる。2014年に前川建築の多くが「景観重要建造物」に指定された背景にも、たんなる文化財としての保護だけでなく、国からの予算確保を円滑にするという戦略的な側面があったという。

 いっぽうで、市内公共施設の管理を行う管財課では、「市民に愛され親しまれる公共施設を次世代に継ぐために」というスローガンを掲げ、公共施設マネジメントに取り組んでいる。これは、土地や建物、設備といったファシリティを経営資産と捉え、長期的な視点から、設備投資や管理運営にかかるコストの最小化と効用の最大化を図る経営活動である(*1)。弘前市では、現存する公共施設の約半数が昭和50年代までに整備されたものであり、その多くが建て替えや大規模改修の時期を迎えている。こうした状況下で、管財課は財政課と連携し、施設の統廃合を含めた具体的な施策を検討しながら、限られた予算内でいかにして公共建築を存続させるかの判断を下している。

 8件の前川建築のなかで、最初期に改修が実施されたのが弘前市民会館である。同館は弘前公園内(国指定史跡)に位置するため、法規制により建て替え(再建築)が認められないという制約があった。そのため、改修の具体策については前川建築設計事務所を交えた慎重な協議が重ねられた。また、竣工から年月を経て耐震性が不足していた弘前市庁舎の本庁舎においても、機能の刷新と意匠の保持の側面から検討を重ね、階段部分の象徴的な赤い壁や特徴的な窓など、前川デザインを象徴する部分は可能なかぎり活用するという、設計的工夫が施された。

弘前市民会館、管理棟の内観 ※写真は改修直後(2014年1月)に撮影したもの 写真提供:弘前市民会館
弘前市庁舎の外観 撮影:編集部

継承と革新

 弘前市における前川建築保存の最大の特徴は、「使いながら残す」という一貫したスタンスにある。これらを鑑賞用の「作品」として保存するのではなく、あくまで市民が利用し続ける「公共施設」として存続させることに主眼が置かれている。その際、機能性を重視するあまり前川建築としての意匠を損なうことは避けなければならず、象徴的な部分は「継承」し、設備や機能面は「革新」する。このバランスを図りながら改修を進める「継承と革新」こそが、保存活動の根底にある。

 この「継承」のプロセスにおいて注目すべきは、技術や知見の共有である。改修時には前川建築設計事務所による助言を仰ぐとともに、設計段階から地元の設計事務所や施工業者を参画させている。これにより、前川建築のエッセンスや設計ノウハウを地域社会自体が継承していく仕組みが構築されている。

2022年に弘前駅の自由通路で開催されたパネル展 写真提供:弘前市

 あわせて都市計画課では、前川建築の魅力を広く周知するための啓発活動にも注力しており、解説パンフレットの配布をはじめ、市庁舎ロビーへの紹介ブース設置、パネル展示など、多角的に情報発信を展開。各施設の見どころを記した「前川建築カード」の配布も行っている。

 「弘前に複数の前川建築が現存している」という事実を市内外に発信する一連の取り組みは、それ自体が保存に向けた重要なアクションだといえる。文化資産の存在や価値を正しく認識することは、その地を訪れる動機となり、さらには近代建築を次世代へ引き継ぐ意義の再確認へとつながっていく。

「大切にする」という実践

 行政による制度的な取り組みと同時に、市民の手で建築を守ろうとする動きがある。2004年に発足した「前川國男の建物を大切にする会」(以下、「前川の会」)はその筆頭だ。同会は「弘前に現存する前川國男の作品を、多くの人に知ってもらい、貴重な文化的財産として『大切にしていくこと』を目的とする一般市民の団体」(*2)である。

 発足人のひとりである葛西ひろみにとって、その原動力は前川建築に対する純粋な感動であった。弘前出身の葛西は、市庁舎や市民会館といった前川建築を幼少期から身近に感じてきたが、それが前川の手によるものだとは長く知らずにいたという。転機となったのは、偶然目にした記述から前川の存在を知り、デビュー作である「木村産業研究所」を訪れたことだった。その後、1995年12月に弘前で開催された建築シンポジウム「弘前とのかかわり」で、35年以上にわたり弘前のプロジェクトに携わってきた前川建築設計事務所の仲邑孔一の話に魅了された葛西は、仲邑を講師に招いたレクチャーやバスツアーを次々と企画。これらの活動が結実し、2004年2月に「前川の会」が正式に発足した。構成メンバーは建築関係者に留まらず、学生や会社員、主婦など、多様な層が集まった。

 葛西は会の名称について次のように語る。「『保存』という言葉はあまりピンとこなかった。それよりも、普段から建築を気にかけ、慈しむ気持ちを込めたかった。『大切にする』という抽象的な言葉こそが、私たちの想いにもっとも近いと思う」。この「大切にする」という姿勢は、同会の多岐にわたる具体的な活動に現れている。

弘前中央高校講堂の椅子(改修前) 写真提供:前川國男の建物を大切にする会

 その象徴的な事例が、2004〜06年にかけて実施された「弘前中央高校講堂の椅子改修プロジェクト」である。創立メンバーのひとり、古跡昭彦の何気ない発言から始まったこの試みは、講堂に並ぶ806脚の椅子をボランティアの手で補修するものだった。月に一度、椅子の背板を外し、古い塗装を剥がし、再塗装を施して設置し直す。この地道な作業を2年間で計26回繰り返し、延べ294名が参加して完遂させた。市民が自らの手で前川建築に触れ、再生させた最初のアクションとなった。

「弘前中央高校講堂の椅子改修プロジェクト」の改修中の様子 写真提供:前川國男の建物を大切にする会

 2006年には、前川建築である弘前市民会館と弘前中央高校講堂を舞台とした「建築家・前川國男 生誕100年祭『弘前で出会う前川國男』」を開催。トークセッションに加え、ウォン・ウィンツアンによるピアノコンサート、美術家・山口啓介によるカセットプラントのインスタレーション(弘前市民会館、展示期間:2006年5月14日、16〜18日)、山崎かのこによる参加型パフォーマンスなど、ジャンルを横断したイベントが展開された。建築という枠組みを超え、芸術文化の拠点として前川建築を捉え直す試みは大きな反響を呼び、のちに刊行された1000部の記念誌は完売するに至った。

山口啓介《弘前の6つの窓》(2006) 写真提供:前川國男の建物を大切にする会
山口啓介によるカセットプラントワークショップの様子 Courtesy of the artist
山崎かのこ+harappa《帰ってきた!前川國男》(2006) Courtesy of the artist
山崎かのこ+harappa《帰ってきた!前川國男》(2006) Courtesy of the artist

 また、2011年には木村産業研究所内に「建築家 前川國男プチ博物館」を開館し(2019年閉館)、図面や模型の展示、前川の書斎の再現などを通じて、建築の価値を視覚的に伝える活動を展開。2017年には、凍害により損壊した同施設のバルコニーを復元するため募金活動を実施した。一口1000円という市民が参加しやすい形式を取ることで目標金額を達成し、工事費を工面。この修復が呼び水となり、2021年に同施設は国の重要文化財に指定されることとなった。

 「前川の会」の原動力について、メンバーは「楽しいから」「面白いから」と口を揃える。馴染み深い建築空間からインスピレーションを受け、そこで何かを実現したいという純粋な欲求が活動を支えているという。「ずっと文化祭を続けているような感覚」と話す姿からは、切実な使命感ではなく、建築を慈しむ喜びを感じられる。こうした市民の自発的な愛着こそが、弘前の前川建築を支える最大の礎となっているのである。

*1──弘前市ホームページ内の「ファシリティマネジメント」を参照 https://www.city.hirosaki.aomori.jp/jouhou/keikaku/facility/(最終閲覧:2026年4月16日)
*2──前川國男の建物を大切にする会のホームページを参照 http://maekawanokai.com/?cat=3(最終閲覧:2026年4月16日)

地域資源としての再発見

 2022年に発足した「旅する弘前」も、市民発の自発的な動向のひとつである。旅行会社「たびすけ」から独立した前田優子によって設立された同会は、弘前固有の観光資源を掘り起こし、独自のツアーや体験プログラムを展開している。前田が活動を始めたきっかけは、インバウンド向けのガイド業務を通じ、地元出身の自身ですら認知していなかった弘前の魅力に気づいたことであった。

 地域住民もまた、日常に溶け込む街の価値を再発見できるのではないか。こうした視点から企画されるツアーは、地域特有の歴史を深掘りするコース設定や、通常は非公開のエリアへの立ち入りを伴う特別な体験を軸としており、観光客のみならず地元市民からも高い支持を得ている。

 例えば、徳川家康の養女満天姫が眠る長勝寺にて、普段は入れない津軽家の御霊屋一帯に入り、満天姫の生涯を学ぶとともに供養も行う「満天姫に出会う旅」や、刀匠から日本刀について学び実物に触れて鑑賞・手入れ方法を学ぶ「日本刀鑑賞&手入れ体験」、1630年創業の和菓子店「御菓子司大阪屋」で江戸時代から先祖代々伝わる掛軸や調度品、菓子構図帳を見学するツアーなど、そのプログラムは多岐にわたる。

「仲邑さんと巡る前川國男建築ツアー」の様子 撮影:鎌田翔至

 そんなツアーのひとつとして実施されたのが、前川國男建築設計事務所の元所員・仲邑孔一をガイドに迎えた「仲邑さんと巡る前川國男建築ツアー」である。市内8作品を巡りながら、意匠の解説に留まらず、前川との日々を回想するエピソードを交えることで、その人物像と設計思想に迫る試みだ。

 約6年にわたり複数回実施された本企画は、仲邑の語りを通じて市民が前川の人間性に親しみを持ち、その建築哲学に直接触れる貴重な機会となった。毎回定員を上回る申し込みがあったため、仲邑の解説内容をアーカイブ化し、前田がそれをもとに解説を担う回を設けるなど、継続的な開催に向けた工夫がなされている。

 さらに、模型制作に秀でた仲邑の技術を活かした建築模型制作のツアーも実施された。木村産業研究所の見学後にその内部で模型を組み立てるという、稀有な体験ができる。この試みは地元の学校教育の場でも実践され、日常的に前川建築に親しんでいる学生たちが、模型制作を通じて改めてその構造や美学を再認識する機会を生み出している。

模型を制作する様子 撮影:鎌田翔至
制作された模型 撮影:鎌田翔至

 近年、前川國男をはじめとする日本近代建築の黎明期を支えた建築家たちの作品は、老朽化や経済的合理性、あるいは耐震性の不足といった諸課題に直面し、その存続をめぐる議論が各地でなされている。こうした状況において、8件もの前川建築が取り壊されることなく現存し、なおかつ現役の施設として稼働し続けている弘前の事例は、極めて示唆に富んでいると言えるだろう。他都市と同様に維持管理や建て替えが検討される局面を迎えながらも、弘前市は一貫して「意匠の継承を前提とした改修」という選択を継続してきた。

 その背景には、行政と市民による相互理解と連携がある。弘前において前川建築は、たんに保護されるべき「文化遺産」という認識にとどまらず、市民の日常生活を支える不可欠な公共施設であるという認識が共有されている。市民の記憶と密接に結びついたこれらの建物に対し、自発的に維持管理に関与しようとする姿勢が、長年施設を利用し続けてきた市民の間で定着しているのである。

 前川は、特定の土地に馴染み、時間をかけて育まれ、人々に愛され続ける建築のあり方を志向していたという(*3)。その想いを受け取った人々が、改修と活用を積み重ねてきたことで、これらの建築は今日まで存続してきた。建築を維持し継承するという行為、また都市が文化資産を実効的に保護するための手法を考えるうえで、弘前の実践から得られる知見は多い。

*3──『建築家・前川國男 生誕100年祭 弘前で出会う 前川國男』(2008、23頁)の橋本功(前川建築設計事務所所長)の言葉を参照。