「土佐赤岡絵金祭り」の成り立ち
陽が落ちた夜の商店街に、おどろおどろしくも美しい芝居絵屏風がずらりと立ち並び、揺らめく蝋燭の灯りがその異彩を浮かび上がらせる「土佐赤岡絵金祭り」。高知県香南市赤岡地区で毎年7月の第3土曜日と日曜日に開催されているこの祭りの始まりは、1977年に赤岡吉川地区商工会(現・香南市商工会青年部)が商店街の活性化を願って企画したことに遡る。赤岡北部の須留田八幡宮で行われてきた神祭の風習にならい、幕末より町に伝わる芝居絵屏風を商店街の軒先に飾るスタイルが確立された。祭りの期間中、商店街にはビアガーデンや屋台、コンサート会場などが設けられ、地域住民をはじめとする多くの来場者で賑わいを見せる。


現在、祭りの運営は、屏風絵の所蔵家や商店主、商工会、絵金蔵、弁天座などの関係団体で構成される「土佐赤岡絵金祭り実行委員会」が担っている。近年では絵金のオリジナルグッズの制作・販売などを通じ、作品の保全活動に向けた資金還元や啓発にも力を注いでいる。なお、高知県内では赤岡以外にも絵金作品を公開する祭礼が複数存在する。朝倉神社や愛宕神社などでは、2つ折の屏風形式だけでなく、木枠に絵を貼りこんだパネル状の作品が見られるほか、「台提灯」や「絵馬台」と呼ばれる木台を組んで展示するなど、県内各地で多角的な絵金文化の広がりを見ることができる。
土佐の絵師・金蔵、通称「絵金」とは
幕末から明治初期にかけ、高知の地で鮮烈な印象を残した画人が、土佐の絵師・金蔵(1812〜76)、通称「絵金」である。高知城下の髪結いの子として生まれた金蔵は、幼少期より突出した画才を示し、土佐藩御用絵師や南画家に学んだ。18歳のときには土佐藩主の息女・徳姫の駕籠(かご)かき名目で江戸へ上り、駿河台狩野派の前村洞和のもとで3年間修行。帰郷後は土佐藩家老の御用絵師に抜擢され、絵師として順調に活躍の場を広げていた。
しかし、あるとき狩野探幽の贋作を描いたという疑いを掛けられ、城下を追放されてしまう。その後約10年間に及ぶ消息不明の期間を経て、叔母を頼って流着したのが赤岡であった。町絵師となった絵金は、市民の要望に応じて幟や凧絵、絵馬、そして芝居絵屏風などを精力的に手がけた。一説には身長が六尺(約180センチ)もある大柄な人物であったと伝えられる。墓碑銘によれば絵金から手ほどきを受けた弟子は数百人に上り、1876年に65歳で世を去った後も、絵金とその系譜を引く絵師たちによる作品群が数多く残された。
芝居絵屏風に込められた緻密な技法
絵金の代名詞とも言える「芝居絵屏風」は、歌舞伎や浄瑠璃のクライマックスシーンを2つ折の屏風に描いた土佐独自のものである。幕末から昭和初期にかけ、神社やお堂の祭礼において、氏子たちが競い合って絵金やその弟子に作品を注文・奉納した背景がある。当時、1年分の米代に相当したとされる高価な屏風絵を支えたのは、富裕な赤岡の豪商たちであった。

作品の大きな特徴は、赤や緑といった鮮明な色彩と大胆でドラマチックな構図にある。とりわけ「血赤」と称される独特の赤色を画面全体に散りばめることで、視線の一点集中を防ぎ、画面全体にメリハリを持たせている。また、ひとつの画面に時間の経過や異なる場面を同居させる「異時同図法」を採用し、奥行きのある空間のなかに物語のドラマを凝縮させている。

さらに、作品には凝った技法が用いられている。絵具に貝殻の粉末を混ぜたり蝋を塗ることで、蝋燭の火で灯された際に人物の目がギョロリと光るような仕掛けが施されていたり、女性の髪の毛などの描写には膠(にかわ)を用いることで、下から画面を見上げた際、描線が立体的に浮かび上がる技法を採用している。また、《浮世柄比翼稲妻 鈴ヶ森》の作品には絵金の号のひとつである「友竹」の文字が背景に潜ませてあり、日中の明かりのもとでしか見えず、暗くなると視認できなくなってしまうなど、鑑賞タイミングによって見え方が変わる飽きさせない嗜好が散りばめられている。現在、高知県沿岸部を中心に複数箇所で芝居絵屏風を飾る夏祭りが継続されており、非公開のものも含めると200点以上の芝居絵屏風がいまなお現存している。
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