「具体」が解散したことで、所属していた作家たちがそれぞれの道を歩むようになった。そのなかでも、芦屋を発信地として芸術祭やコンクールの企画に携わる作家たちがいた。吉田稔郎や松谷武判、今井祝雄らだ。展示は「第2部:『具体』が芦屋へもたらした、新たな息吹」へと続く。

話は「具体」結成以前に遡る。1948年4月に創立された芦屋市美術協会と芦屋市が主催者となり、同年6月に公募展「第1回芦屋市美術展覧会」が開催された。「何人も随意に応募することが出来ます」「大きさは制限なし」と募集要項に記された同賞は、第4回より「芦屋市展」と名を変え、現在も多くの人に開かれた公募展として継続している。芦屋市美術協会には正会員として吉原治良が所属しており、前衛を目指す若手作家たちに「芦屋市展」への出品を促し、やがて1954年、同展に出品した若き才能たちとともに「具体」を結成した。



1955年に吉原の発案のもとに芦屋公園で開催された「野外実験展」は、「具体」の会員の作品が、「具体」以外の作家や市内の中学・高校生たちが共同で制作した作品とともに発表される意欲的な場であった。「具体」が活動していた1954年から1972年の間にも、吉原を含むメンバーたちは「芦屋市展」に出品し、作品審査にも関わっており、同展は「具体」の登竜門にもなったという。初日に来場者が3000人を数えることもあったというから、注目度も高く、地域と芸術をつなげる文化事業としても機能してきたことがわかる。
そして、3月末日をもって「具体」が解散した1972年、「具体」の会員だった松谷武判と芦屋在住の華道家・肥原俊樹が二人展の計画を立てる。芦屋市内で洋装店を経営し、吉原治良の活動に影響を受け、若手作家の育成に尽力していた実業家の真壁義昌に展覧会場の相談を持ちかけると、「どうせ開くなら、もっとたくさんの人に出品してもらっては…」と提案され、同年10月に「第1回芦屋川国際ビエンナーレ」が開催されることになった。現代の先鋭的な表現が発表され、作家と市民との交流が生まれる場となるようにという思いが込められ、外国人作家5名を含む13名による作品約20点が出品された。





















