そして展示は、「第1部:具体美術協会 1954-1972 具体フィナーレ/1965-1972」へ。1970年に国家的一大事業として開催された日本万国博覧会(大阪万博)が後期「具体」のハイライトとなり、テクノロジーの発展と呼応するように科学技術を駆使する第三世代の作家が加入。彼らから刺激を受けた第一世代が、それぞれに新たな技法を確立したのもこの時期だった。




大阪万博では「具体」のグループ展に加え、万博美術館で開催された万国美術展〈現代の躍動の部〉において屋外展示《ガーデン・オン・ガーデン》を会員14名で共同制作し、クライマックスとして会場中心部のお祭り広場で「具体美術まつり〈EXPO‘70お祭り広場における人間と物体のドラマ〉」を実施した。長い準備期間と多額の予算を費やしたこのショーは、パフォーマンス・グループとしての「具体」の存在を広く知らしめることとなった。
しかしこの時期、都市計画に伴う立ち退きによって「グタイピナコテカ」は閉館を余儀なくされ、大阪万博閉幕後の残務処理などでトラブルが起こると、第一世代の主要な会員が離脱するという深刻な事態が生じた。吉原は活動拠点として新たな美術館建設の構想を抱いていたが、1972年1月18日に自宅で倒れ、2月10日にクモ膜下出血により芦屋市立病院で逝去した。良くも悪くも圧倒的な影響力、求心力をもった吉原が他界したことで、3月31日をもって具体美術協会は解散した。




















