見世物を求める社会を考える
隣接する展示室では、飯川のアイコンとでもいうべき、ピンクの巨大な「猫の小林さん」が、展示室からはみ出さんばかりに展示されている。本作《デコレータークラブ─ピンクの猫の小林さん》(2026)は、まさに写真を撮影しSNSでシェアしたくなるようなキャラクター性があるが、しかし大きな山型の展示物に半分が隠れていて全容が見渡せないうえ、その巨大さゆえにカメラの画角にすべてを収めることが難しい。これも飯川が意図したところで、対象を見るという行為が、スマートフォンのカメラで撮影しシェアすることと等価になっている現在において、作品がそれを阻害し切り離すことができるのか、という実験でもある。

さらに、展示室内のいたるところに、回せるハンドルとウィンチ、滑車、ロープがある。来場者は本作《デコレータークラブ─0人もしくは1人以上の観客に向けて》(2026)のハンドルを自由に回すことができるが、何が動いているのかは展示室では確認できず、ただロープが巻き取られていることがその作動を確認させる。動作しているものはほかの展示室にあるかもしれないし、あるいは館外にあるかもしれない。遠くにあるその現場を目撃する「0人もしくは1人以上の観客」の存在について考えるとき、作品を「見る」ということが巧みにずらされていることに気がつく。

また《デコレータークラブ─プリングタイム》(2026)は、天井から吊り下げられたロープをどこまでも引き出せる作品だ。それなりの重さのあるロープは、どこまでも引っ張り続けることができ、足元には大量のロープが山のように溜まっていく。掃除機のコードのようにいずれは終わりが来るだろうという予想は延々と裏切られ続け、この事前の見立てが通用しないということに作品の根幹があることがわかる。

飯川の作品シリーズ名「デコレータークラブ」とは、毛を使って海藻や貝殻などを外殻に付着させ、周囲の環境に擬態するカニのことだ。擬態された「作品」を発見したときの驚きや喜びそのものが本シリーズでは焦点になっているが、同時にそこでは観客の期待値は巧みにコントロールされている。成功したアクションをほかの場所で試す。擬態した作品と類似したものを展示室で探す。こうした仕掛けがいたるところに張り巡らされている。
飯川はかつてアーケードゲームの開発に携わっており、このときにプレイヤーが新たなコインを投入する契機をいかにつくり出すかを追求した経験が、アーティストとしての活動にも生きていると語る。本展は、観客が自身の行為を通して楽しめるエンターテイメントとしての側面がある。しかし同時に、すべてを「見世物」にしようとする、あるいは「見世物」を見つけ出そうとする、現代の視覚と行為の狂乱を雄弁に語るものにもなっている。




















