忘却に抗う、映画の「想起する力」
早尾 インターネット、SNSの時代は容易さの反作用で、情報の質の低下や映像の質の低下、動画の氾濫を起こしています。映画の中でも赤新月社のスタッフがSNSで発信しようとして、それに対してスタッフのひとりであるオマールが「そんな映像や音声はインターネットに溢れている。それで人が動くと思うのか」と反論する場面があります。そうしたインターネット全盛期に映画はどんな力を持っているとベン・ハニア監督は思いますか。映画でしか表現できない、伝えられないことはなんだと考えますか。
ベン・ハニア 映画は20世紀においてアートの王様でした。その後インターネットやSNSが登場し、いまや私たちはその情報量に圧倒される日々を送っています。そうした状況で、例えばパレスチナの人びとはそこで起きている死や被害を自らスマートフォンで撮影して、それを世界に発信しています。しかし、SNSの中で他の膨大な物事とともに流れると、昨日起きた恐ろしい出来事についても、今日の恐ろしい出来事に消し去られてしまうという、ある種の記憶喪失が起きてしまいます。情報の流れがあまりにも早すぎて、忘却してしまうのです。人間の脳はそれほどには多くの画像や情報を受けいれることができないので、どんなに恐ろしい映像でもインパクトを失うのです。

先ほども言いましたが、私はヒンドの声を赤新月社のSNSの投稿で初めて聞きました。そのときに、この声はもっと大きな場所で、そして忘れられない場所で聞かれるべきだと考えました。インターネット上に流れる膨大な情報に埋もれて忘れられるのを避けなくてはなりません。忘却するのではなく想起する力こそが映画にできることです。
暗い映画館に座り、声に耳を傾け、物語を理解するのに時間をかけること。例えば、映画の最後に、銃撃されたヒンドの車と救急車の映像が出てきますが、それはSNS上でも拡散されていたものです。それを眺めるのと、映画の最後に見るのとでは、まったく感覚が異なります。弾痕だらけの車にヒンドとその従姉のラヤンがいて話をしていたこと、彼女たちが生身の人間として存在していたことを、鑑賞者は知ったうえであらためて車を見るのです。そうしてSNSの圧倒的な情報のなかで見失い忘れ去るのではなくヒンドの声や車に意識を集中させることができる。それが映画のもつ力だと思います。
銃や戦車ではなく「占領のシステム」を描く
早尾 最後に、赤新月社の主要なスタッフ4人の登場人物のうち、マフディについて伺います。直接ヒンドの声を受け止めたのはオマール、ラナ、ニスリーンの3人ですが、国際赤十字やパレスチナ自治政府を通してイスラエル軍と調整する役割のマフディは、想像を絶する精神的な重圧やストレスを受けているだろうと思います。

最初は手続きやルールばかりを重んじ現場の切迫した要請を封じる頑固な上司のような雰囲気を漂わせますが、救急隊員が次々とイスラエル軍に殺害されているガザ地区で、同僚を守る責任はマフディの調整にかかっているわけです。マフディが仲間から責め立てられトイレに籠城する場面はとくに印象的です。またマフディが救急車を出す手続きを説明しているときの図は、無限記号(∞/infinity)に見えます。このトイレへの籠城や無限記号、さらにはマフディが調整に調整を尽くしたはずの救急車が攻撃されたことは、パレスチナ人全体が追い込まれている不条理さ、理不尽さ、行き詰まりを表現しているようにも感じましたが、いかがでしょうか?
ベン・ハニア 初めて救急車を出す調整の手続きについて知ったとき、私はショックを受けました。占領下で体制が特別な規則を押し付けてくるのはアパルトヘイトと同じです。人びとは、銃撃や爆撃など大きな暴力については知っていますが、システムについて知っている人は多くありません。システムは派手ではなく静かなものだからこそ、私はこのシステムの暴力性を示す映画をつくるつもりでした。最初にこの企画の話をしたときに、戦争についての映画なのだから銃や戦車は登場させるべきだと言う人もいました。しかし私はそのような誰の目にも見えるような暴力には関心がありませんでした。ゆっくりと進行する官僚的な暴力、しかもパレスチナ人を抑圧するためにあえて設計されたシステムを描きたかったのです。ヒンドがイスラエルに住むユダヤ人の子供だったらどうだったか想像してみてください。こんな調整手続きなど不要でしょう。パレスチナ人だからこそ意図的にこの調整システムが適用されヒンドは殺害されました。私はあまり知られていないこの側面を見せることがすごく重要だと思ったのです。

あの無限記号(∞)のシーンは、マフディが最も不可能な役割を負わされているということを示しています。彼はともすれば同僚を死地へと送り出すわけですから。劇中のマフディは「殉職者の写真をもう1枚加えることになったらこの職を辞める」とオマールに言っていましたが、実際にマフディはこの事件で同僚ふたりを失ったあと、その部署を辞め他の部署に異動されています。
無限記号(∞)は、不正に操作された占領のシステムそのものであり、調整役には「この少女を救うために同僚を死地に送り出すべきかどうか」というとても倫理的で困難な選択を迫られている。それは解決不可能な状況であり、この官僚主義的な手続きを全部守ったとしても、それを強いた占領者は構わず救急車を爆撃してしまう。それこそが占領の残酷さを如実に物語っています。マフディだけでなく、パレスチナの人びとがそういう占領システムのなかでいかに生活しているのか、それがいかに辛いことなのかということを、映画を通して観客に体感してもらいたいのです。



















