取材を終えて:ヒンド・ラジャブの死が映し出す「占領の真実」
カウテール・ベン・ハニア監督による『ヒンド・ラジャブの声』で赤新月社のスタッフたちからありありと見えていた「無力さ」は、私自身もガザ・ジェノサイドの続くこの3年、感じ続けてきた「無力さ」に重なった。遠くにいて何もできず、それでもできることを模索し、無力を痛感しながらそれでもできることを続ける日々。それだけでなく、四半世紀のあいだパレスチナや封鎖されたガザ地区の極めて危機的な状況について、書籍や講演や文献翻訳を通して日本社会に訴えてきた。そのときからずっと「こんなことをして何になる?」という思いを拭えないまま、それでも投げ出すことなく、毎日パレスチナのことを考え、行動を続けてきた。それは、ベン・ハニア監督も語っていたように、「自分たちの特権性」の自覚ゆえだ。疲れたから、辛いからといって、ガザの人たちは逃げ出すことも休むこともできない。外にいる自分たちが、疲れた、辛いなどといって折れるわけにはいかない、と。ベン・ハニア監督の言葉からもその思いがとても伝わってきた。
ガザ、パレスチナの背景を踏まえると、この映画では、大きくふたつのことが論点化されている。ひとつには、とくにこのガザ・ジェノサイドにおいて、医療機関・医療関係者と子供たちが意図的に攻撃されていることであり、それは民族集団や社会の維持や再生産に対する攻撃である、つまり民族浄化(エスニック・クレンジング)的である、ということだ。2023年10月7日のガザ蜂起を契機に大規模攻撃を始めたときから、イスラエル軍は執拗に病院・診療所・救急車を爆撃し、そして医者・救急隊員らを狙撃・拉致してきた。このことに関しては、私自身、2023年11月16日号の『アハリー・アラブ病院を支援する会ニュースレター』に「ガザ地区を『生存不可能』にするために病院は意図的に破壊される」という分析記事を書いている。
また、「10.7」以後公式に記録されている約74000人の死者数(実際にはもっと多いと推計される)のうち約3割は子供であるが、それは本来攻撃対象から外されるべき学校や避難所や一般家庭が無差別に攻撃された結果である。イスラエルは対外的には攻撃理由を「ハマス掃討」として正当化するが、実際には、パレスチナのコミュニティを破壊することを狙っていると思われる。次世代を担う子供への攻撃は、保護できなかった大人たちへの心理的ダメージと、将来にわたる長期的なダメージも意図されている。医療施設と子供に対する攻撃は、こうした意味で民族浄化なのであり、ヒンド・ラジャブと救急隊員の殺害は、まさにこの典型例だ。
「迫真の演技」ではなく、「真実に迫る」映画
この映画で描かれているもうひとつの論点は、ベン・ハニア監督自身が強調しているように、目には見えにくい「占領のシステム」そのものだ。法律、軍令、慣例はもちろんのことだが、例えば、入植者用道路、検問所、身分証明書、移動許可、労働許可や建築許可など諸々の許可証などでも、そのシステムによる過剰な締め付けは占領下におけるパレスチナ人の生活を日々縛りつけている。銃撃や空爆がなくとも、パレスチナ人の生活は隅々までイスラエル軍による支配に組み込まれているのだ。
このことを、とくにガザ地区に関する研究者であるサラ・ロイは、「反開発(De-development)」と呼んだ。開発が遅れている「低開発(under-development)」とは異なる概念で、根本的に社会経済の機能を阻害し、そもそもの開発や発展ができないようにさせられているのだ。パレスチナは1967年の西岸地区・ガザ地区の軍事占領の開始からずっとその状態に置かれてきたが、2000年に第二次インティファーダ(民衆蜂起)が始まり、それに対してイスラエル軍が弾圧を始めたときから、この状況はいっそう悪化している。救急車1台を派遣するのに「無限∞」のようにも思える過剰な手続きが必要とされるのは、その象徴である。実際にいまでもパレスチナでは救急車が検問所で止められ、重病・重症の患者が救急車内で死亡したり、妊婦が検問所で出産を強いられたり、といったことが毎日のように起きている。
それゆえ、『ヒンド・ラジャブの声』は、当然ヒンドひとりを描いているのではなく、命を救えなかった無数の子供たち、占領システムに支配される全パレスチナ人たちを描いている。また赤新月社のスタッフたちの占領下でできることを模索し続け、奮闘するという小さな抵抗を続けるすがたを描いているのだとも言えるだろう。
最後に映画の手法についても触れておこう。ベン・ハニア監督は、「陶酔的真実(エクスタティック・トゥルース)」という概念に触れた。取材した事実を示すという古典的ドキュメンタリーとは異なり、深い真実を抉り出して表象するためにあえてフィクションや演出を使うこと。例えば、インタビューで私が言及したミシェル・クレイフィ『石の讃美歌』は、インティファーダのときのドキュメンタリー映像に、イスラエル軍に捕えられ拷問を受けたパレスチナ人男性と、かつてパレスチナを離れジャーナリストとして外から戻ってきたパレスチナ人女性とが、15年ぶりに再会し交錯するという演技部分を重ねた。それによってインティファーダを描くだけでなく、その背後にある時間の積み重ね、コミュニティの内部と外部の差異、男女の経験の差異を示唆し、そのことでインティファーダそのもののイメージを掘り下げたり、増幅させたりする。「陶酔的真実」という概念でこの映画のことを思い出した。
ベン・ハニア監督は、クレイフィとは異なる融合的(ハイブリッド)な形式を用いた。ヒンドの声は実際の録音音声で、それを聞く赤新月社のスタッフは俳優による(事実に基づいた)演技、むしろ初めてヒンドの声を聞いた俳優による率直な反応。さらに、俳優の演技中に、実際のスマホ撮影の動画が重ねられる。この迫真性には率直に衝撃を受けた。「迫真の演技」という意味での迫真性ではなく、文字どおり「真実に迫る」その手法に目を見開かせられたのだ。この映画を通して、普段見えていないものに目を見開かせられたという意味で、ベン・ハニア監督が示した「占領の真実」とは、まさに「陶酔的真実」であったということを、インタビューによって知ることとなった。




















