「子供の死をスペクタクルにしない」
早尾 映画においていかに表象(リプレゼント)するのかは、劇映画であれドキュメンタリー映画であれどんな作品でも問われる課題だと思います。なんらかの形式や手法を通さずには表象は成し得ないからです。かつて有名な論争だと、スティーブン・スピルバーグの劇映画『シンドラーのリスト』(1993)をクロード・ランズマンがホロコーストを描けていないと批判しました。そのランズマンの長編ドキュメンタリー『SHOAH ショア』(1985)を念頭に、ミシェル・クレイフィとエイヤル・シヴァンによる『ルート181』(2003)は、ホロコーストのシオニズム的な利用を批判しています。そのクレイフィには『石の賛美歌』(1990)というドキュメンタリー映像とフィクション映像を混ぜた、インティファーダ(パレスチナの住民がイスラエルの占領支配に対して起こした一連の抵抗運動)を主題にした作品があります。
ベン・ハニア監督の『ヒンド・ラジャブの声』もドキュメンタリーと演技の融合作品ですが、ヒンドの実際の通話音声を使いながら、役者の演技を被せる手法には強い衝撃を受けました。さらに映画終盤でのスマートフォンで撮影された実際の映像を重ねた場面では、苦悶の表情で頭を抱えているスタッフたちの演技が、ある意味では演技などではないこと、現実であることを思い知らされました。ベン・ハニア監督がこの融合的な表現方法をとろうと決断したことには、前作『Four Daughters フォー・ドーターズ』(2023)の経験もあると思いますが、そのほかにどのような要因がありましたか。また、この融合的な表現方法でもっとも難しいと感じられたのはどの部分でしょうか。
ベン・ハニア ジェノサイドについての映画をどう撮るべきなのかは、大きく重要な問いです。これについてはすでに前例があります。ジッロ・ポンテコルヴォの『ゼロ地帯』(1960)(原題・『Kapo』はナチスの強制収容所内で囚人監視係の囚人のこと)という映画では、ホロコーストを美化したとして、フランスの批評家によって批判を受けました。死体を写す際の移動撮影(トラヴェリング)というカメラワークが技巧的すぎる、そして非倫理的だとして問題視されたのです(映画批評家のジャック・リヴェットによる批判論文が論争を起こした)。私は、これまでホロコーストなどジェノサイドをほかの監督たちがどのように捉えてきたのか、撮影する前に観ていました。

本作に関してはふたつの課題がありました。ひとつ目は絶対に子供の死をスペクタクルにしないこと。彼女のいた現場である車内でのシーンを一切撮影しない、ということです。というのは、語るべきことはすべて録音に入っており、それ自体が強力な証拠になっているからです。最初に彼女の声を聞いたその瞬間から、この映画の核心、物語の焦点は彼女の声そのものだとわかりました。そしてふたつ目は、インパクトをもたせつつも、当事者らへの尊重(リスペクト)のある映画をつくることでした。そのために、彼女の声を聞いていた側、つまり赤新月社のスタッフの視点からすべてを描くという判断に至りました。
映画には基本的にはオフィスで電話を持って話している人たちしか出てきませんが、電話の向こう側にいるヒンドのいた場所も、画面には映りませんが、作中に存在しています。そして音声記録を使うことを考えると、古典的なドキュメンタリー映画の手法ではこの物語には適さないと思いました。ドキュメンタリーは過去の出来事を説明するものですが、そうでなく私自身が初めてヒンドの声を聞いたときに感じたことを、観客にそのまま同じように体感してもらいたいと思った。「いますぐ助けてほしい」と乞うている彼女の声が発せられた瞬間について、問い、考え、感じるために、私たちは体感しなければなりません。そのために「現在進行形の映画」にすべきだと思いました。赤新月社のスタッフらがカメラの前で自分たちがどう感じていたのかを説明するようなドキュメンタリーではだめなのです。そういった理由で俳優の実際の反応を撮影する手法を取りました。
しかし、それはそれで違う課題にぶつかります。俳優を使うと、観客はたんなるフィクション映画だと考えるようになる。本当に起きた現実なのにスリラーのように見えてしまい、無自覚な観客が救出劇のフィクション映画だと勘違いする。それを私は危惧し、俳優を使う際、観客たちに俳優らが聞いている声は現実のものなのだと自覚してもらうために、実際の映像も重ねました。複雑で困難な手法でしたが、公平かつもっともインパクトのあるものになったと思っています。

早尾 この融合的な表現形式には、必然的な事情と意図した戦略があるわけですね。
ベン・ハニア 触れていただいたように『Four Daughters フォー・ドーターズ』のような作品で融合的(ハイブリッド)な形式を用いてきました。完全なフィクション、完全なドキュメンタリー、モキュメンタリー(フィクションをドキュメンタリーであるかのように見せる手法)、融合的映画をつくってきたなかで思うのは、ジャンルのあいだに明確な境界はないということです。純粋なドキュメンタリー、純粋なフィクションというような分け方というのは、映画祭や団体・財団などが求めているだけであって、映像作家たちにとっては関係ありません。ドキュメンタリーでも多くの演出(ミザンセーヌ)が必要ですし、他方でフィクションでも俳優が現実(リアリティ)を演じるときがあります。

『ヒンド・ラジャブの声』では俳優の演技を撮影していますが、パレスチナ人の俳優たちに対して「こういう気持ちになってほしい」「こういう感覚を見せてほしい」といった演出はできないと思いました。「ヒンドの声を聞いたときに、こういう気持ちになってください」などとはとても言えない。私たちはやり方を変え、まず俳優にはヒンドの声は聞かせていない状態で台詞を覚えてもらい、撮影が始まって初めて彼らにヘッドセットを通してヒンドの声を聞いてもらった。それをドキュメンタリーのように撮影しました。俳優が涙を流しているシーンも今回は一切の指示や演出を行わなかった。それは、普通のフィクション映画とはまったく異なる撮り方です。
映画監督のヴェルナー・ヘルツォークが提唱した「陶酔的真実(エクスタスティック・トゥルース)」という概念があり、優れた作品であれば、事実を見せるだけでなく、事実の描写を超えて奥底にある真実を露呈させることができるという考え方です。私も本作でこの意味での真実の領域に到達したいと思いました。というのも、ヒンド・ラジャブ事件の事実的な側面については、私が映画に着手した時には、すでにジャーナリストたちやワシントン・ポストやフォレンジック・アーキテクチャー(国家的暴力に関するロンドン拠点の調査機関)などが、あらゆる証拠を集めて、ヒンド殺害について詳細な分析記事をすでに出していました。映画監督として私がすべきことはこの犯罪調査に関してこれ以上不要な補足を行うことではありません。映画の鑑賞者に、赤新月社のスタッフの立場、被占領下に暮らすパレスチナ人の立場になってもらう、ということだと思いました。それこそ私が伝えたい陶酔的真実です。



















