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多田美波研究所所長・岩本八千代インタビュー。職人たちとともに駆け抜けた、多田美波の知られざる姿に迫る

東京・清澄白河の東京都現代美術館で、戦後日本において抽象彫刻家・造形作家として活躍した多田美波(1924〜2014)の大規模回顧展「多田美波—光、凛と ゆれる」(8月29日〜12月6日)が開催される。生涯で200点を超える彫刻と、500点以上に及ぶ建築関連作品を手がけた多田の作品世界は、いかにして生み出されたのか。長年にわたり多田の傍らで制作を支え、その美学と現場をともに歩んできた、多田美波研究所所長の岩本八千代に話を聞いた。ものづくりへの情熱と独自の美学、そして多くの職人や建築家を魅了した多田の人となりに迫る。 ※8月28日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

談=岩本八千代(多田美波研究所所長) 聞き手=田村万里子(東京都現代美術館学芸員) 構成=今野綾花 撮影=手塚なつめ

多田美波研究所所長の岩本八千代。手前は東京都現代美術館のMOTコレクションにて展示されている多田美波《相(Phase)》(1989)

帝国ホテルで梱包材に包まれて眠る

──本日は多田美波さんの作品についてだけでなく、制作の姿勢やお人柄についてもお話をうかがえたらと思います。多田さんは10代の頃から制作を開始し、その表現方法を変えながら生涯で200点を超える彫刻と、500点以上に及ぶ建築関連作品を手がけました。1962年、ご自身が38歳のときには、多田美波研究所を設立されました。まず、岩本さんは多田さんとどのように出会い、どのような経緯で多田美波研究所に入ったのでしょうか。

岩本 わたしも渡部(多田美波研究所副所長の渡部克己)も、多田が教えていた桑沢デザイン研究所の出身なんです。当時の桑沢では、建築家の篠原一男先生、清家清先生、林雅子先生といった、実際に現場の第一線で活躍する方々が教鞭を執っていました。多田は専任の教師ではありませんでしたが、出会ってすぐに「面白い人だな」と思いました。「彫刻とはなにか」とか、仕事の理念とか、そうした難しい話は一切せず、ひたすら自分の作品をまとめたスライドだけを見せていましたね。

多田美波研究所のメンバー。左から、本間充明、岩本八千代、渡部克己

──学校の先生として多田さんに出会ったのですね。授業ではどのような作品を紹介していたのでしょうか。

岩本 皇居の新宮殿の光造形や帝国ホテルの《黎明》(1970)を紹介していました。当時、「こんなにいろいろなことを手がける人がいるのか」と思ったのを覚えています。そこで、夏休みに「先生のところでアルバイトしたい」とわたしから多田にお願いしたのです。「うち、女の子は絶対続かないわよ」と言われながらも、多田美波研究所に学生アルバイトとして入ることになりました。そうしたら、なんだか気が合ったのでしょうね。その年(1970)に大阪万博に連れていってもらったりと、密度の濃い時間をともに過ごしました。学校が半分、研究所でのアルバイトが半分といった生活を続け、卒業してそのまま研究所に入りました。

多田美波 光壁《黎明》(1970)ガラス、金属 帝国ホテル 東京 撮影:作本邦治

──多田さんは仕事に対してどんな姿勢で取り組んでいましたか。

岩本 多田はつねに仕事に100パーセントの力を注ぐ人でした。「男の人でもよっぽど必死にならないと仕事をまっとうできない世界に女性が入っていくのだから、同じだけの努力じゃダメよ」と言っていました。「男の人が10やるなら、15、20やるつもりでやらないと、男社会に入っていくのは無理よ」と。

 例えば、帝国ホテルの《黎明》を手がけていたときは、現地に泊まり込んで制作を続けていたそうです。帝国ホテル側が「先生、体が持ちませんから」と部屋を取ってくださったのに「部屋に行く時間がもったいないから」と、段ボールにガラスの梱包材を詰めて、その中で寝たそうです。結局ホテルの部屋には一晩も泊まらなかったようです。もったいない話ですよね(笑)。

まずは言われた通りにつくってみる

──多田さんの建築における最初の代表作が、皇居・新宮殿の光造形だと思います。どんな経緯で実現したのでしょうか。

岩本 新宮殿の造営部長の高尾亮一さんという方が、当時、玄関にどんなシャンデリアをつけるか、たいへん悩んでいらしたそうです。日本の新しい宮殿としては、ヨーロッパから輸入したものをそのままつけるわけにはいかない。誰に頼もうかと悩んでいたときに、たまたま銀座の松屋サロンで多田の作品をご覧になったそうです。洗面所などにあるボールチェーンを素材にしたシャンデリアの《チェーンデリア》(1963)という作品です。調べるとどうも多田美波という女性がつくったらしいということで、宮内庁から突然、多田のもとに呼び出しの電話がかかってきたそうです。多田は度胸が据わっていたから、その場で大喜びで「引き受けさせていただきます」とお返事したようです。

多田美波《光造形》(1968)ガラス、金属 皇居・新宮殿 撮影:野堀成美

 新宮殿の仕事をいただいたとき、多田は38歳でした。当時の時代背景を考えると、まだ若いひとりの女性作家にこれほどの大仕事を託すことは、高尾さんにとっても大きな決断だっただろうと想像できます。

 多田がこの依頼を引き受けたことを自身の父親に話した際、「頼むから辞退してくれ」と言われたそうです。「もし失敗したらどうする」と。多田の父親は戦時中、朝鮮に赴任していて、過酷な時代を生き抜いてきた厳格な方でした。だからこそ、「宮殿の仕事で万が一の過ちがあったら、とうてい取り返しがつかない」と、その責任の重さを誰よりも心配されたのでしょうね。

──結果として、新宮殿の仕事以来、多田さんは様々な建築空間における仕事を手がけるようになります。仕事の進め方についてもうかがわせてください。大胆な造形のアイデアは、どのように生み出されていたのでしょうか。

岩本 多田の仕事は、まずは模型ありきなんです。スケッチを描いて見せるということはほとんどありませんでした。新宮殿のシャンデリアも、考えながら模型をいくつもつくり直して、あのかたちになっていったんです。

──頭の中に立体的なイメージがあって、それを模型に落とし込みながらスケールアップさせていったんですね。アイデアを建築空間に落とし込むために、建築家とはどんなやりとりがあったのでしょうか。

岩本 例えば、リーガロイヤルホテル大阪の仕事では、建築を手がけた吉田五十八先生との綿密なやりとりのなかで制作を進めていきました。多田は吉田先生のことを本当に尊敬していて、「先生が右と言ったら右、左と言ったら左」というほど全幅の信頼を寄せていました。

多田美波 光造形《瑞雲》(1973)クリスタルガラス、ボールチェーン リーガロイヤルホテル大阪 ヴィニェット コレクション 撮影:作本邦治

 同ホテルの光造形《瑞雲》(1973)は雲がたくさん浮かんだようなかたちをしていますが、かたちを決めるまでに非常に苦労しました。発泡スチロールを削って大まかなかたちをつくり、ピアノ線の先を尖らせて、5ミリ幅に切ったビニールチューブを焼き鳥のように刺して、スケールアップさせていきます。どの部分に何個ガラスを使うか計算しながらつくるので、模型をひとつつくるだけでも本当に大変な作業なんです。そうやって苦労して仕上げた模型を吉田先生のもとに持っていくと、吉田先生が「うーん、もう少し丸みがあったほうがいいかな」と一言おっしゃるんですね。すると多田は「わかりました、丸みですね」と即答する。言うのは簡単ですが、わたしたちは模型をつくり直すために毎日深夜まで作業して、終電前に帰れた試しがなかったほどでした。

岩本八千代(多田美波研究所所長)

 当時わたしも気が強かったんでしょうね。あるとき「多田先生は日本で一番いいシャンデリアをつくる人なんですから、吉田先生に言われたからってコロコロと意見を変えないでください」と言ってしまったんです。そうしたら多田に「違う」と叱られました。「吉田先生もわたしたちが苦労しているのはわかっているのよ。それでも先生ほどの人が『僕のイメージはこうだよ』とおっしゃるんだから、まずは言われた通りにやってみるの。『違います』なんて失礼なこと言えますか」と。そして21個の雲、22万個のガラスの色と配置などを決めていきました。大変な思いをしましたが、それほど多田は吉田先生のことを尊敬し、日本建築の空間の美しさを学んでいきました。

編集部

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