山沢栄子「What I Am Doing」(LAG)
この夏、東京では東急が主催する「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」が渋谷・ヒカリエホールにて開催され、渋谷を中心に都内の複数個所で関連展示が開催されていた。LAGにおける山沢栄子「What I Am Doing」展も、「まなざしの奇跡」展の連携企画として開催されたものである。山沢の作品は「まなざしの奇跡」展でも複数点紹介されていたが、LAGでの展覧会は山沢が1980年代に制作した代表的なシリーズ「What I Am Doing」に焦点を当てたものであった。

山沢栄子は1899年に大阪府で生まれ、1918年に私立女子美術学校日本画科選科を卒業した。その後1926年に27歳で単身渡米。この時代に、日本国内で女性が専門教育を受けているということも既に先進的であるが、さらに山沢は米国のカリフォルニア・スクール・オブ・ファイン・アーツにて油彩画を学んだ。小勝(2020)によれば、山沢は渡米直後に父親の訃報を受けたものの帰国せず、米国に残ることを選択した。そんななかで山沢はアメリカ人写真家コンスエロ・カネガの助手として働き始め、生活基盤の確保するだけでなく、暗室作業をはじめとする写真技術を修得する。海外で3年間の研鑽を積んだ後日本に帰国、1931年に大阪で自身の写真スタジオを開設し、肖像写真などの商業写真に携わるいっぽう、独自の抽象表現による写真作品も制作した。この経歴は、山沢が写真表現における先駆的な作家であるだけでなく、写真という技術を習得することによっていま以上に職業上の男女格差が激しかった当時の社会において経済的自立を実現した女性であったことも示している。

「What I Am Doing」展においてまず驚かされるのは、その作品がとてもミニマルでありながら鮮やかな色彩に満ち、抽象的でありながら印象的なイメージを提示していることであった。紙や針金、カラーフィルム、瓶といったあくまで日常的な被写体を起点にしながらも、視覚的インパクトの強いコンポジションをつくり出していることから、山沢がもっていたモダンな感覚がうかがえる。さらに驚くべきはその被写体であり、例えば《What I am doing No.9》(1980/プリント1986)は、山沢が自身の写真集の3ページ目を切り取り、折り曲げたものを再度撮影している。つくり出されるイメージはミニマルなものだが、そのイメージが生み出されるまでの過程にある行為はどうだろうか? 写真を破り、しわくちゃに丸め、もう一度伸ばして折り曲げる、そこにカメラを向けて刷り出す。山沢の写真実践は、抽象表現であると同時にパフォーマティブなものでもあると言えるかもしれない(*5)。あるいは《What I am doing No.24》(1980/プリント1986)は、モノクロ写真に塗料を散らした様子を撮影している。絵画的な手つきとその偶発性が写真というメディアのなかに収められていることからは、三次元的なものと二次元的なものを往還する山沢の視点を感じることができる。

これらの挑戦的な作品からは、アメリカ近代芸術の影響を多分に受けた山沢の制作姿勢が伝わってくる(*6)。しかし、実際には山沢は自身を専業の芸術家とみなしていたわけではなく、商業的な写真を自身の「仕事」として芸術的活動とは明確に区別していた。山沢自身は「毎日の生活のための仕事のあいまに、時間をみつけて、私はこれから日本をカメラでつかまえたい」(池上・鈴木、2019、182頁、*7)と述べており、写真を通じて芸術作品を生み出す創作者の顔と、財界の著名人を相手に商業活動の幅を広げていく職業人としての顔を使い分けていたことがうかがえる。しかし、山沢は学生時代には絵画を学んだものの、写真という表現媒体に出会ってからは、職業人としても創作者としてもカメラから離れることはなかった。山沢が写真を愛した理由のひとつが垣間見える爽快なテキストが残されている。
ここに痛快なことが一つある。写真は技術の仕事だから男子と同等である事である。あらゆることに於て女性は男性よりもその価値如何にかかはらず収入を少なくしている現代の社会にあつて、女性なるが故に写真代を安くする必要の更にないのを私は愉快に思ふ。(中略)事々にくだらないカンショウを受ける現代の女性の1人として私はどこまでも真面目に自分の信ずる道を行きたいと思ふ。出来たらそういふ生活の分野のあることを、私は身をもつて同じ人達に語りたい。(池上・鈴木、2019、158頁、*8)
ここで筆者は、「女性は機械に弱い」というステレオタイプに抵抗し、16ミリカメラを使いこなした出光のことを思い出す。むろん、両者の人生や制作環境は大きく異なっていた。しかし両者は、女性の能力や可能性を性別によって規定する社会的偏見に対し、アメリカにわたって技術を獲得することで抵抗したという点で、共通する魂がある。機械の技術は、少なくともその操作そのものにおいて使用者の性別を判断しない。フィルムを装填するのが男性あれ女性であれ、必要な操作を習得し手順を踏めば、カメラは作動する。ひとりの表現者として男女差別に立ち向かった山沢と出光が、映像と写真という差異はあれど、カメラを使った実践にたどり着いたことは、「奇跡」ではなく「必然」なのかもしれない。

女性に対する社会的な抑圧は、イエ制度、女子教育、職業選択、身体規範といった異なる領域を横断して作用する。そのため、出光が捉えた家庭内の女性の苦しみと、山沢が写真技術を通じて追求した職業的自立を、本質的に異なる問題として切り離すことは不可能なのかもしれない。両者の実践はともに、女性が自らの人生をどのように主体的に構築できるのかという問いに接続している。
最後に、女性作家の作品を継続的に紹介してきた大阪拠点のコマーシャルギャラリー、The Third Gallery Ayaについて触れておきたい。同ギャラリーは、出光のビデオ・インスタレーション作品《REAL? MOTHERHOOD》(2000)を初上映した場所でもある。また、同ギャラリー代表の綾智佳は、神戸・大阪を拠点に開催された出光真子作品展プロジェクト「私がつくる。私をつくる。」の実行委員会にも名を連ねている(*9)。出光と山沢、異なる時代を生きた2人の作家を支えるアートワーカーとして、志ある女性ギャラリストの仕事が存在していることは、女性の生き方、仕事のあり方に前向きなメッセージを伝えてくれる。家父長的なポリティクスが再興しつつあるいまだからこそ、女性作家たちの実践に学ぶことで、私たちは自分の人生をこの手に取り戻すのだ。
*5──山沢の写真作品については、中村(2019)が西宮市大谷記念美術館での回顧展に寄せたレビューのなかで複数の解釈可能性を提示している。
*6──山沢と近現代アメリカ美術、とくに同時代との写真家の関係性については鈴木(2019)に詳しい。
*7──本稿執筆にあたっては池上・鈴木(2019)を参照。池上・鈴木(2019)によれば、本引用の初出は山沢栄子「女流写真家として40年」、『婦人公論』(1956)41巻9号所収。
*8──本稿執筆にあたっては池上・鈴木(2019)を参照。池上・鈴木(2019)によれば、本引用の初出は『輝く』2年12号、通巻21号、1934年12月17日。
*9──The Third Gallery Ayaの活動の足跡は三木(2023)に詳しい。
参考文献
出光真子『ホワット・ア・うーまんめいど: ある映像作家の自伝』、岩波書店、2003
イメージフォーラム編集部「つっ張れ!女性映像作家 出光真子インタビュー」『イメージフォーラム』152(9月)、1992、54–61頁
笠原美智子『ジェンダー写真論 増補版』、里山社、2022
小勝禮子「アートとジェンダーをめぐる旅 第3回 山沢栄子 女性写真家のパイオニア」、『しんぶん赤旗』、2020年8月21日付
斉藤綾子『撮られる女/撮る女』、青弓社、2025
菅沼友子「医学部入試女性差別事件東京医大判決を受けての会長声明」、2022年10月11日(https://niben.jp/news/opinion/2022/202210113637.html)2026年8月2日取得
鈴木佳子「山沢栄子とアメリカ近代写真」、池上司・鈴木佳子 編『山沢栄子 私の現代』、赤々舎、 2019、190–193頁
中村史子「日本とアメリカのはざまで 中村史子評『山沢栄子 私の現代』展」ウェブ版「美術手帖」、2019年8月28日(https://bijutsutecho.com/magazine/review/20390)2026年8月11日取得
三木学「女性の写真史から美術史へ『the Third Gallery Aya 25周年記念展 山沢栄子、岡上淑子、石内都 2021』」、『美術評論+』2023年9月9日(https://critique.aicajapan.com/1369)2026年8月14日取得
森来実、 コー・ユー「日本、皇位継承の規定を緩める 女性天皇を認めないことは変わらず」、『BBC Japanese』、2026年7月17日(https://www.bbc.com/japanese/articles/c62e4pdnmllo)2026年8月12日取得
Takac, B.「Inside womanhouse, a beacon of Feminist art.」『Artsper Magazine』(https://blog.artsper.com/en/a-closer-look/women-artists/judy-chicago-womanhouse)2026年8月11日取得
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