記憶と想像力が世界を書き換える
若林菜穂「記憶のひも」(東葛西1-11-6-A倉庫)
私たちがいま生きているのは、「光過多」の時代である。太陽から降り注ぐ自然光。それだけでなく、人工的な光も私たちの生活の隅々にまで入り込んでいる──街灯、ネオン、LEDサイネージ、そしてスマートフォンやパソコンのスクリーン。夜になっても、完全な闇に包まれることはほとんどない。私たちの身体はいつだって光に晒されているのだ。
若林菜穂はそんな世界に溢れかえっている、いわば飽和状態とも言える光を、キャンバスに落とし込んでいるアーティストである。

若林による油彩画は、それ自体が発光しているかのような不思議な感覚を覚える。それはスクリーンのようにその周りの空間全体をも照らすような曖昧な輪郭を持つ光り方ともいえるし、太陽を見ながら目を閉じたときに現れる残像(閉眼残像と言うらしい)を想起させる光り方ともいえる。
若林はインタビューで、光に対する感情やその捉え方の多様さについて以下のように述べる。
キラキラしたものが好きとか 日の光自体も結構好きだったけど でも同時に眩しいなっていう 不快感みたいなものもあって それは 子供の時は好意的に受け止めてたものが 中学生くらいになった時に 刺激となってストレスだったから、あんまり 晴れてる日とかは好きじゃない 攻撃されてる感じがあったりとか でも印象には残るみたいな感じがあって 色んな光を結構気にしていたなという感じですね その光は眩しいなっていう 嫌だなって 不快感に繋がった時は 夜寝る前に部屋の電気を消して じわーっとこう、何て言うんですかね…ものが見えてくる 暗闇の中から 意外と外の光とかって明るいんだなってことを感じたりとかして 転じてだんだん光の見え方が色々出てくるから 昼間の光を また気持ちよく受け止められるようになって そういうものが作品に出てくるようになったりとか ずっと変化してる感じですね 光に対しては(*1)
この言葉からわかるのは、若林にとって光が、単純に美しいものではないということである。光は、きらめきや心地よさをもたらすいっぽうで、眩しさやストレスといった不快感を身体にもたらす。
なるほどたしかに、若林の絵画に描かれる光は、世界を明るく照らすための光というより、身体への刺激としての光である。つまり、そこに描かれているのは光そのものというよりも、光に晒された身体の感覚とも言い換えることが可能だ。空間全体を、そして身体の周りを包むかのような光は、だからこそ生まれるのだろう。

光を描いた画家として、例えばレンブラントを思い浮かべることができる。彼の絵画において光が劇的に立ち上がるのは、その背後に深い闇があり、それによって光と闇が強く対照化されるからである。
しかし、ここでの光は、そうした闇を前提とした光ではない。私たちは夜でさえ、街灯やスクリーンの光のなかにいる。そんな光が過剰に存在する時代に、それでもなお身体に残存してしまう光を若林は描いているのではないだろうか。
若林の絵画を見ていると、光は描かれている対象とは別のイメージを引き寄せているように感じられる。それは、この展示のタイトルにも含まれる「記憶」とも関連してくるだろう。光は、それがあまりにも眩しすぎるとものの輪郭をはっきりさせるどころか、むしろ曖昧にする。若林の絵を見ると、光は、私たちが見ることを可能にする条件であると同時に、私たちの記憶を揺らがせる両義的なものであると気付く。

若林が描く風景には、一見すると既視感がある。しかし、よく見るとその風景の上には、現実の風景ではありえない、突拍子もないオブジェクトが描かれている。その風景とオブジェクトの組み合わせは唐突なのだが、妙に馴染んでいて、まるでそれがひとつの風景として存在したかのようである。
若林の制作スタイルは独特で、自身が日常や旅先で撮影したスナップ写真などを用いたコラージュを絵画というかたちに落とし込んでいるのだという。
私たちは過去を、写真のように正確に保存しているわけではない。記憶は思い出されるたびに少しずつ組み替えられ、別の記憶や感情、見たことのある風景と結びついていく。若林の絵画における風景もまた、現実の再現ではなく、記憶のなかで何度も結び直されたイメージのように見える。つまり、このコラージュという手法は、記憶のあり方に近いと言うことができるのではないだろうか。
また、私たちの時代は、光過多であるだけでなく、インスタントな時代でもある。目の前のものはすぐに写真に収められ、わからないことはすぐに検索され、イメージは瞬時に生成される。

いっぽうで、油絵具をキャンバスに重ねていくという行為は時代逆行的であるといえる。塗り重ねられ、消され、また塗り重ねられるその過程は、記憶が時間をかけて変化していくあり方にも似ている。
光が過剰にあふれ、イメージが瞬時に消費されていく加速主義的なこの時代に、若林の絵画に描かれているのは、現実そのものではない。けれども、現実よりもなぜか確かさを感じられる、記憶のなかの風景なのである。
*1──「A SOKO|ARTIST INTERVIEW Naho Wakabayashi ― 若林菜穂 Kioku no Himo ― 記憶のひも」https://www.instagram.com/reel/DW8BpdbEnZv/?igsh=b2RoajY0d2t1bW5l(最終閲覧日:2026年6月29日)
嶋田周「羽抜け蟲」(バンビナート ギャラリー)
嶋田周の作品は、驚きの連続である。
例えば《浮くシシャモ》(2025)では、子持ちシシャモの卵がいくつもの風船に置き換えられている。そのままでは風船に引っ張られて身体ごと浮かんでしまうため、シシャモは牛につなぎ止められている。《木》(2026)では画面上に大きく1本の木が描かれ、その木に実っているものが奥歯になっている。《ソーセージブランコ》(2025)では、トンボがソーセージでできたブランコに乗って遊んでいる。

どれも突拍子のない光景である。しかし同時に、なぜか妙に馴染み深くも感じられる。
その理由のひとつは、作品を構成するものが私たちの日常生活のなかにあるものだからだろう。家、木、紅茶、ソーセージ、シシャモ、風船、ブランコ──私たちがすでによく知っているもの同士が、未だかつてない関係で結び付けられているのである。
嶋田の作品に通底するテーマのひとつに、「内包」がある。あるもののなかに、本来そこにはないはずの別のものが取り込まれている状態が、繰り返し描かれている。
先述の《浮くシシャモ》では、シシャモの身体のなかにある卵が風船に変化している。いっぽう、《紅茶》(2025)という作品では、人間の体内に紅茶のティーバッグが描かれている。

そして《家を飲み込む人》(2026)では、そのタイトルが示すとおり、ひとりの人間が家を飲み込み、家がちょうど喉元を通過している。口元には木の板がのぞき、その下方、胸のあたりからは青いドアが開かれている。ドアからは、馬のような動物たちが列をなし、人物の肩から生えた木(あるいは遠景がそう見えているだけかもしれないのだが)へと向かっている。なんともチャーミングなのは、家のかけらである木片(?)が人間の口元についてしまっていることである。
作家自身はこの作品について、「家という内の世界を飲み込むことで、体内が外の世界に切り替わる」(*1)と語っている。通常、家は人間を内側に包み込むものである。しかしこの作品では、人間が家を体内に取り込むことで、家と身体をめぐる内側と外側の関係が反転している。
このような関係性の反転は、もの同士の関係が固定されたものではなく、流動的に組み替えられうることを示している。これは、嶋田の作品において、人間というモチーフが中心に据えられていないこととも関係している。人間、動物、植物、食べ物、建物は、互いを内包しながらそれぞれ等価に並べられている。そこでは、主体と客体の境界が揺らいでいる。嶋田の作品は、こうした奇妙な関係を通じて、人間を中心に世界を捉える視点を相対化するのである。
また、嶋田の作品は一見すると支離滅裂に見えるが、画面のなかには独自の因果関係が存在している。
《浮くシシャモ》では、卵が風船になっている。風船が付いているから身体が浮かんでしまう。浮いてしまうから、牛につないで地上にとどめる。その出発点は奇妙であるものの、ひとたび「卵が風船である」という設定を受け入れれば、その後の展開にはロジックが通っていて不思議な説得力がある。

嶋田による作品の説明も興味深い。《XXLサイズポテト》(2024)に関しては、「小さくてコロコロしているジャガイモを大きく雄大な大地に置きたいと思い描きました」(*2) 。

《切断》(2026)に関しては、「彼がボーッと生きている内にフェンスを突き破るほどツノが伸び、枝が生え、枝から葉が生えてしまい、身動きが困難になったのでノコギリで切ってもらうことになりました」(*3) 。こういった、「こうしたいから、そう描きました」「こうなったので、そう描きました」という、率直で簡潔な言葉が多い。
このことからわかるのは、作品のなかの対象が初めから世界に存在し、それを作家が発見して描いているのではないということだ。作家が「こうしたい」と考えることで、その世界がつくられる。描くことによって、現実にはできないことが実現され、新しい物理法則が生まれる。「ソーセージのブランコで遊びたい」と思えば、ソーセージは食べ物から一変して遊具になる。「家を飲み込みたい」と思えば、人間と家の大きさや、包むものと包まれるものの関係が反転する。作家自身の希望や問いが、作品世界を動かす最初の法則になっているのである。
これは一見すると暴力的である。作家が世界の創造主となり、描かれたものたちは、その意志に従わされているようにも見える。

しかし、嶋田の作品をよく見ていくと、そこにあるのは対象を支配し、思い通りにしようとする暴力ではない。むしろ、ものがもともと持っている特徴や、作品のなかで生じた状況に応答するように、次の展開が導き出されている。《XXLサイズポテト》では、ジャガイモのもともとの小ささを否定するのではなく、その小さく丸い姿から「大きな大地に置いてみたい」という想像が生まれている。《切断》においても、伸びすぎた角や枝は罰として切られるのではない。身動きが取れなくなった「彼」が再び動けるようにするため、ノコギリによる切断が必要とされている。《浮くシシャモ》も同様である。卵が風船に変わったために身体が浮いてしまうのであれば、牛につないで地上にとどめればよい。嶋田の作品では、最初に生じた奇妙な変化がそのまま放置されるのではなく、そこから生じる不都合や困難に対して、別のもの(それは作家のときもあれば、画面に描かれたモチーフのときもある)が手を差し伸べる。作家の想像力は、対象を無理に従わせるためではなく、その対象が新たな状態のまま存在し続けられるために働いているのである。
したがって、「こうしたいから、そう描く」という嶋田の態度は、現実を自身の意志で征服することとは異なる。それは、ものの性質を起点に、「もしこうなったら、何が必要になるだろう」と考え続ける行為である。嶋田がつくり出す世界では、作家の希望だけが優先されるのではなく、その希望によって変化したものたちの事情もまた尊重される。そこにあるのは一方的な改変ではなく、想像のなかで対象と折り合いをつけながら、ともに生きられる世界の法則を探っていくような、ケアの姿勢なのである。
*1──バンビナート ギャラリー「美術作家のことば|嶋田周『羽抜け蟲』展より」『note』、2026年5月20日、https://note.com/bambinart/n/n03c827affb74(2026年7月20日閲覧)。
*2──同上。
*3──同上。






























