2017.3.8

日本のガウディと呼ばれる男。建築家・梵寿綱インタビュー

1983年、早稲田大学前にそびえる奇怪な集合住宅「和世陀」(わせだ)をつくった建築家・梵寿綱(ぼん・じゅこう)。アーティスティックな彼がつくる建物は、いまなお斬新で、生命力にあふれている。梵寿綱とはいったい何者なのか。彼の言葉を通して、その迷宮の扉が開く。

聞き手=編集部

自身の建築「和世陀」前にて Photo by Koki Sunada
前へ
次へ

──「和世陀」のイメージはどこから生まれたのでしょうか。

 できあがったものを見ると、こうしたいと僕がイメージしていたように見えちゃうんだけど、そうではなくて。どんな建物も、事情があって、そうするしかないから、こうなった。ああしたい、こうしたいと言ってそのままできたものはひとつもない。

 「和世陀」もイメージというより、自然とできたかたちなんだよね。6階建ての集合住宅をつくるということだけは決まっていて、敷地がいびつな五角形なので、梁と柱で構成する直線型よりは壁式構造を利用したカーブが合うなと。この規模の住宅にかけられる予算も含めて合理的に考えた結果なんです。

 外壁のコンクリート彫刻がだいぶできてきて、まだビニールを被っていた頃、「突飛な建築ができる」と噂が広まって。彫刻家やらタイル職人やらが集まってきて、「建築家が自らコンクリートで彫刻をつくっていることが面白い、こいつは仲間だ。自分も参加したい」と言いだして。それで「じゃあ、やってみろよ」と(笑)。

「和世陀」(Art Complex IV)外観 Photo by Koki Sunada

──「和世陀」にはいろいろな装飾が随所に散りばめられていますが、参加したアーティストや職人は何人くらいいるのでしょうか。

 15、6人くらいかな。外壁彫刻は僕がぜんぶやっちゃったけど、外壁から飛び出ているアルミ彫刻は平田くん、床の大理石モザイクは当時イタリアで修行していた上哲男、ロビーにある手の彫刻は竹田光幸さん、他にもたくさん。僕から声をかけたのは竹田さんだけで、ほかはみんな自然と集まってきた。具体的な発注はぜずに、僕からのスケッチもドローイングなしで、できあがるのを待つ。

 ぶつかってみないとわからない。これも縁ってことだね。意欲のある若いアーティストの活躍の場を増やしたいという思いもあるし、本人の持っている可能性を引き出したい。自分のことを表現したいと思っている人はダメ。純粋につくりたいという意欲にあふれているかどうか、その人間を見分けることが、僕の大事な仕事なんだ。

「和世陀」ロビーにある手の彫刻。制作は竹田光幸

──完成した当時の反響は、どのようなものでしたか。

 こんな学園都市に、とんでもないラブホテルみたいのができた(笑)。

 ビルの完成と同時に、協働したアーティストや職人の作品発表も兼ねて合同展覧会を開いたんだよ。「建築そのものを展覧会する」という、当時にしては画期的なイベントだったようで、『週刊新潮』が「ラブホテルか芸術か」というタイトルで巻頭5ページのグラビアで取り上げたのをきっかけに、さまざまな媒体から取材を受けたよ。いまでも時折、取材を受ける。30年以上もずっと話題になる建築って、なかなかないんじゃないかな。

「和世陀」外観の彫刻 Photo by Koki Sunada

──建築名が「和世陀(Waseda el Drado)」。他にも梵さんの建築は当て字のような建築名が多いですが、なぜこのような名前に至るのでしょうか。

 日本語、とくに漢字は言葉自体が象徴性をもっている。それを選び合わせることで僕がつくる建物のイメージと合ってくる。早稲田という名前は、早く稲ができる豊かな土地ということなのかな。早咲のイメージで、土地の名前だけれども大学名としてもとてもいいなと思った。ただ、マンション名として「早稲田」としちゃうと、ただの地名がついたマンションになっちゃう。

 建物の力をもっと引き出したくて、なんとなく仏が世の中をまとめている、理想郷(エル・ドラード)がある世界を想い、このような名を与えたんだよね。「寿舞」(すまい)という言葉も住宅によく使うんだけど、「住まう」とすると即物的だけれど、寿が舞うなかに生きていると考えるだけで心配りが違ってくるでしょ。名前の付け方で、建築も関わる人も、大いなる力に向かわせることができる。

 ビルと書くとただ建ってるものだけど、「美瑠」と書くとアートとして人の心を打つものになる。こうして、僕自身も言葉によって、無意識のうちに建築と結びついていくと思っている。

インタビューに応える梵寿綱 Photo by Koki Sunada

──1992年に「アート・コンプレックス運動」を発表し、その後、アート・コンプレックスシリーズをIからXまで発表しました。どのような活動なのでしょうか。

 「アート・コンプレックス」には2つの意味があって。ひとつは「さまざまなアートが複合されているよ」という意味と、もうひとつは「アートに対してコンプレックスを持っているやつが集まっちゃった」。自嘲の意も含めて(笑)。失われた職人の技術を復興して、さまざまな表現手段を建築のなかに取り戻」すことで、「生命の響を建築空間のなかに再興し」、「先達が私たちに残してくれたように語り伝える」。全文は今回の作品集『生命の讃歌』に掲載してあります。自分の名前を掲げて、ひとりでつくるのではなくて仲間たちと協働でできていく。それによって、個人の問題をはるかに超えて、心に響く建築になっていくと思っている。

南池袋に建つ「斐醴祈」(Art Complex III)

──個人や、名前のことでいうと、梵寿綱は本名ではないとのことですが、名前の由来はどこからでしょうか。

 1966年に建築事務所を設立するときに名前を決めなくちゃいけなくて。田中敏郎建築事務所という個人名を用いると狭い意味になってしまう。もっと大きな意味で建築をつくっていきたい、つくらなくてはならないと思った。その心構えとして、ヒンドゥー教の奥義書『ウパニシャッド』に「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という思想があってね。「梵」(ブラフマン、天理を支配する原理)、「我」(アートマン、人間が持っている原理)が一体だと言っている。天理があるように心理がある。宇宙と個人はつながっている。さらに、養父の戒名(寿綱)を用いた。実際は血がつながっていないけれども僕を受け入れてくれた養父母。その恵みによって僕は生きている、生かされている。命のつながり、想いのつながりをもって伝えていきたい。そんなところでしょうか。

「斐醴祈」ロビー

──建築名の付け方と同様に、名前にもこだわりがあるのですね。建築を作品と呼ばず、講演会でもサインはしないと聞きました。その理由は?

 桶屋が注文されて桶をつくるのと同じことをしていると思っていて。『生命の讃歌 建築家・梵寿綱+羽深隆雄』という本が出たけれども、作品集というタイトルは付けたくなかった。これは、建築家、羽深隆雄と梵寿綱の仕事をまとめた本、ただそれだけ。僕自身も消えていくものだから、梵寿綱を知らなくても、「和世陀」は響いてくる。「あれは、誰々の建築だ」と言われないと存在が示せない建築も、親が築いた建築事務所の名称をそのまま継いでいる建築家も恥ずかしいと思っている。個人名を介してやってるようじゃ、文化的な建築にならない。心に響かない建築はただの建っている物。それだと建築家じゃなくて、ビルディング・デザイナーだよ。

 なぜ心に響くかというと、個人の持っている潜在意識に触れてほしいと思ってつくっているから。個人的あるいは、地域にある何かに触発される契機となる、それが文化として流れていくことが大切で、そういう要素が散りばめられている。それこそが真の建築で、この感覚はなかなか伝わらないのだけど、外国人のほうが共感してくれることが多い。

──心に響くことを芯に設計されているためか、梵さんの建築は施主の事情で取り壊されててしまった数件をのぞけば、ほとんど現存しています。梵さんの建築巡礼ができますね。

 できるんじゃないかな(笑)。この本に載っている建築17件のうち14件は現存しているし、他にもカーサが旗の台、中目黒、相生、亀戸にあって。松濤にも1件ある。見に行ってなくなってたら悲しいから、いまあるかは確認してないけど(笑)。

東大和市に建つ「無量寿舞」(Art Complex V)

──梵さん個人として、いま注目していること、興味があることは?

 ダンス。83歳で、体がリズムにのって動くというのはいいことだよ(笑)。ダンスのスケジュールだけは外さない。ダンスの魅力は、自己表現が主体で、アート的で、パフォーマンス性もあるところ。さらに、自分の体をつかってその動きで、感動を与えることができる。ダンスの先生は、僕よりずっと年下だけども、ピュアな人が多くて友達になる。ビルディング・デザイナーなのに建築家と言ってるやつは大嫌いだから友達にならない(笑)。

──梵さんにとって、建築とは?

 「生命の讃歌」ですかね(笑)。僕は天にギフトされた、役割を与えられたと思っている。天才を「natural gift」と訳すけど、多くの天才はギフトされていることに気づいていない。自分の力だと思って自惚れている。僕は自分を天才だとは思ってないよ。与えられたこと重荷としてやっているだけ。ジョブじゃなく、タスク(使命)としてやったときに初めてプロフェッショナルになれる。ジョブで金稼いでるやつがプロと呼ばれがちだけど、それは要領がいいだけでプロじゃあない。天意に従って努めている人がプロ。それはどんな仕事にも言えるんじゃないかな。