山沢栄子と複数のタイトル
山沢栄子が1986年の最後の新作個展にて展示した「私の現代/What I Am Doing」シリーズは、彼女が光と色彩、立体と平面の関係について、写真制作を通じて探求した作家であることを端的に示す。《ニューヨーク》(1977)という既存作を、《What I Am Doing No.26》(プリント1986)とタイトルを変えて本シリーズに加えていることから明らかなように、彼女の関心は、具体的な事物の記録や再現から、光、色、その二次元上での即物的なあらわれ、そして、それらをつかさどる写真制作という行為へと移行している。
また、山沢は同じカットであっても、写真集と展示用の作品で色味やトリミングを微妙に変更している。山沢はイメージの表れる場、そのメディウムについても強く意識していたようだ。
さらに注目すべきは、自身の写真家としての活動や行為をメタ的に別作品へ組み込んでいる点である。例えば、《What I Am Doing No.8》(1980/プリント1986)は、《What I Am Doing No.1》(1976/プリント1986)をくしゃくしゃに丸めて撮影した写真である。二次元平面が丸められて三次元のオブジェとなる面白さ、それが再度、撮影を通じて二次元平面へと回収される入れ子構造、過去の制作活動に対する自己言及的な身振りなど、本作品はいくつもの観点から論じられる。また、紙を丸める行為の記録としてとらえれば、彼女の作品は、パフォーマンスや、パフォーマンスを記録した写真作品へとも展開できるだろう。
さて、このようにいくつもの領域へと敷衍可能な山沢の表現であるが、彼女自身は長らく日本写真史の外縁に置かれ、調査も十分されてこなかったようだ。その要因としては、「一次資料が失われていること」(*1)が大きいのは明らかである。しかし、1920年代に渡米しコンスエロ・カナガから写真を学んだ山沢の活動は、同時代の日本写真家とはあまりに異なり、従来の日本写真史に組み込みづらかった面もあるように思う。
そもそも、彼女と同年生まれの写真家、塩谷定好(*2)に代表されるように、1920年代以降、日本にて先端的な写真表現を牽引したのは主にアマチュア写真家たちであった。けれども、山沢は師事したカナガ同様に、写真スタジオを自分で構え、職業として長らく写真活動を続ける。作品として意識的に写真を発表し始めたのは、60代になってからだ。 また、こうした経歴ゆえなのか、芸術写真、新興写真、報道写真の興隆と国策への協力、戦後のリアリズム写真運動といった時代ごとの日本写真史の潮流とも、山沢は一定の距離をおいているように見える(*3) 。事実、土門拳は彼女の最初の写真集『遠近』(未来社、1962)を「何の技巧も弄しない地味な作風」(*4)と称しており、このつっけんどんな彼の物言いにも、土門拳らと山沢の価値観の相違が感じられる。
そこで本展は、アメリカ写真の祖・アルフレッド・スティーグリッツが発行した芸術雑誌『カメラ・ワーク』に掲載されたアメリカ近代写真の代表作も合わせて展示し、山沢を日本ではなくアメリカ写真史に接続しようと試みている (*5)。そして、それは確かに説得力がある。例えば、『遠近』(1962)に見開きで登場する《セントラル・パークの馬車》(1955)。これは明らかにスティーグリッツの《終着駅》(1893)へのオマージュだろう。また、《白い陶器》(1955)、《木目》(1958)等、即物的に事物を切り取りながら、その質感と造形的面白みを追求した写真は、アーロン・シスキンドなどと相通じる。彼女がアメリカの写真表現から大きな影響を受けてきたことがよくわかる。
さらに、同写真集に収められた《栗》(1960)からは、それらアメリカの近代写真とも異なる突出した個性が見て取れる。2分割された背景に対し、手前へと貼り付けられたかのような平板な栗のイメージが特徴的だ。さらに、山沢は《栗》を写真集にまとめるにあたり、その紙面を前後の紙面よりも狭く取っている。結果的に、《栗》越しに後ろのモノクロの柿のイメージが少し顔をのぞかせる構造となり、相異なる文脈のイメージ同士がコラージュのように物理的に隣り合っている。物理的な紙、そしてイメージの重なりに対する彼女の先鋭的な姿勢が明確に現れている。山沢はアメリカの写真表現を十分に学び血肉にしたうえで、より実験的な写真表現へと大胆に跳躍していったのだ。
会場には作品のみならず手紙も展示され、師であるカナガ、そしてイモジェン・カニンガムと山沢の親交が紹介されている。日本の写真家よりもアメリカを拠点とする女性写真家に、彼女は仲間意識を抱いていたのではないだろうか。日本人でありながら1920年代にアメリカで自身の表現手段を確立させ、第二次世界大戦を挟みつつも彼の地の人々に親近感を持ち続けた表現者、山沢栄子。その視点に立つと、また別の側面に気づかされる。
再び、『遠近』に戻ろう。ここに収められた《国連の柱/Inside of the United Nations》(1955)は、立ち並ぶ柱を幾何学的にとらえた1枚だ。奥に立つ彫刻との対比も相まって、白黒の格子が非常に巨大かつ堅牢に感じられる。なお、山沢がこの写真を撮影した1955年当時、日本は国際連合に未加盟で、翌年ようやく加盟を果たす。その事実を踏まえると、画像の半分以上を占めるこの格子は、視覚的に面白いだけではなく、人を阻む柵あるいは地から高みへと至る梯子のようにも見えないだろうか。
また、本作に限らず、『遠近』に収められた作品には、日本語タイトルと英語タイトルが若干、異なっているものも少なくはない。
タイトルの違いが異なる印象をもたらす作品に《ニューヨークの子供1/Freedom Fighters》(1955)がある。「ニューヨークの子供」は、無表情のまま銃を担ぐ、あるいは、銃を弄びつつ訝しげな眼差しを向けている。中央の子のぶかぶかの服や、背景のどこか荒れた印象も相まって、私はダイアン・アーバスの少年のポートレイトに通じるアメリカの病理を炙り出す1枚だと一見してとらえた。しかし、英語のタイトル“Freedom Fighters(自由のために戦う戦士)”が、冷戦下のアメリカでどう響いたかを考えると、本作は別の表情を見せる。本作は、私の最初の読みとは真逆に、幼い子供の中に芽生えた自由の国アメリカへの愛国心を肯定的に表現した写真とも解釈されるのではないか。
ごく客観的な日本語タイトルと、様々な含意をほのめかす英語タイトル。それぞれから受ける印象は微妙に異なる。そこに、2ヶ国の文化的土壌の狭間を行き来しつつ表現を追求した写真家の複雑さを垣間見るようである。また、加えて私は、彼女自身が、いくつもの肩書き(タイトル)を背負っていたことを想起する。日本人、アメリカ写真の継承者、営業写真家、芸術家、職業婦人、女流写真家など、山沢はつねに複数の肩書きとそれにふさわしいアイデンティティを調整しつつ生きてきたのだろう。彼女についてのさらなる継続的な調査が待たれる。
*1──池上司「山沢栄子の「ひとつの道」—新資料を中心に」『山沢栄子 私の現代』赤々舎、2019年、pp.186
*2──山沢と同じ1899年生まれで、大正ピクトリアリズムを代表する写真家として知られている。
*3──『私は女流写真家』(山沢栄子、ブレーンセンター、1983年)に収められたインタビューで、山沢は土門拳(pp.84,pp.92,p.116-118)、安井仲治、小石清、中山岩太(p.91-92)、木村伊兵衛(pp.92,pp.118)との関わりについて尋ねられるが、知っているものの親交はないといった回答を返している。また、第二次世界大戦中、多くの写真家が国策に取り込まれていく中、山沢は信州に疎開し出征前の兵士等を撮影して生計を立てる。
*4──『遠近』の土門拳の跋文より抜粋。
*5──より詳しくは『山沢栄子 私の現代』に収められた前掲の池上の論文と、鈴木佳子「山沢栄子とアメリカ近代写真」を参照。それぞれ山沢を、アメリカでの交友関係や、アメリカの写真状況から改めて読み解いている。