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なぜ「見えないもの」に惹かれるのか。トニー・アウスラーが語る、創作の源泉とAI時代の想像力

TOKYO NODEで、日本初となるトニー・アウスラーの大規模個展「トニー・アウスラー:技術と霊知のはざま~魔術、メディア、アート~(Tony Oursler: Tech/Gnosis-Magic, Media, Art)」が開催されている。映像をスクリーンから解き放ち、音や彫刻、言葉を組み合わせた没入型インスタレーションによって、現代の映像表現を切り開いてきたアウスラー。その創作は、コンセプチュアル・アートやシュルレアリスム、実験映画、ノーウェイブ・ミュージック、日本文化、さらにはUFOや心霊現象、AIまで、様々な領域と響き合いながら展開されてきた。本インタビューでは、幼少期の原風景からデヴィッド・ボウイとの協働、信念とアーカイブ、そしてAI時代における創造性まで、自身の言葉で振り返ってもらった。※7月12日24時まで、すべての方に全文お読みいただけます。

聞き手・構成:王崇橋(編集部)

トニー・アウスラー、《スペキュラー》(2021)の前にて 撮影:Yuya Furukawa 写真提供:TOKYO NODE

少年時代からニューヨークまで──創作の原風景

──今回の展覧会では、初期の絵画から最新作までが紹介されています。あらためてご自身の歩みを振り返ると、想像力や創作の原点になったものはなんだったのでしょうか。

トニー・アウスラー 子供の頃のことで、まず思い浮かぶのはシュルレアリスムです。美術史全般に興味がありましたが、とくに若い頃はシュルレアリスムに強く惹かれました。青年期には、その少し倒錯的で反抗的な感覚が魅力的に映るんです。でも年齢を重ねると、また違った側面が見えてきます。

 今回の展覧会には《ジータ》(2025)という10点組の小さな絵画作品を展示していますが、これは祖母の姉妹に捧げた作品です。彼女は小学校教師であると同時に画家でもあり、週末には一般の人たちに絵を教えていました。

祖母の姉に捧げられた《ジータ》(2025) 撮影:編集部

 子供の頃、身近な家族にアーティストがいたことは私にとって大きな意味がありました。彼女の姉妹は教師、兄弟は建設作業員でしたから、芸術家であることもそれらと変わらない、ごく自然な職業のひとつとして身近に感じられたからです。そんなある日、突然、親戚が彼女のイーゼルを私のもとに届けてくれ、私は創作意欲をかき立てられました。彼女は幼い頃の私に絵を教えてくれました。そして今回展示した作品は、いわば彼女との『交霊』のようなかたちで制作されたものなのです。

 芸術だけでなく、映画からも多くの刺激を受けました。ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)のような初期映画や、ジャン・コクトー、ケネス・アンガー、ウィリアム・ウェグマン、そしてカリフォルニア芸術大学(CalArts)で師事したジョン・バルデッサリ。いっぽうで、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)、『時計じかけのオレンジ』(1971)のようなポップカルチャーも大好きでした。

 性教育映画。ロバート・ブリアとジョーダン・ベルソン。デイヴィッド・リンチにも強い影響を受けています。そのデビュー作『イレイザーヘッド』(1977)は公開当時に映画館で観ました。いま振り返ると、あれほど実験的な作品が劇場公開されていたこと自体が驚きですね。

──あなたは、テレビからインターネット、そしてスマートフォンへとメディア環境が大きく変化していく時代を経験してきました。そうした環境の変化は制作につながっていますか。

アウスラー もちろんです。私たちは、ある意味でスクリーン時代、そしてデジタル時代の始まりを経験した世代なんです。

 映画館では、人々は同じ空間で同じ映像を共有していました。でもテレビの時代になると、映像は家庭へ入り込み、その延長線上にインターネットが現れます。当初は双方向性によって人々を結びつけるユートピア的な可能性が語られていましたが、その楽観は長くは続きませんでした。私たちはすぐに、その暗い側面も目の当たりにすることになります。

 いまでは、スクリーンはスマートフォンとなって、人類を月に到達させたコンピュータの1000倍ものパワーを秘めて、私たちのポケットのなかに収まっています。いまや私たちはAIを手に入れました。メディアを扱う作家としては、私は「情報はアート」だと捉えています。あらゆる情報へアクセスできる現在の環境は刺激的です。でも社会全体にとっては、この旅路はとても複雑で問題の多い状況でもある。それでも私は、テクノロジーそのものに対しては基本的に楽観的でいたいと思っています。

──CalArtsで学び、1980年代にはニューヨークの実験的なアートや音楽のシーンへと身を置きました。そうした環境は、現在の表現をどのようにかたちづくっていったのでしょうか。

アウスラー ロサンゼルスには、本当に刺激的なアーティストがたくさんいました。「The Kipper Kids」というイギリスのパフォーマンス・デュオには強い衝撃を受けましたし、クリス・バーデンの初期作品も忘れられません。彼は作品のために自分の腕を人に銃で撃たせたり、フォルクスワーゲンに磔にされたりするような過激なパフォーマンスで知られていました。

 そしてなにより大きかったのは、私はアート界で流通するビデオテープをつくり始めました。マイク・ケリーとの「The Poetics」は重要で、私たちはパフォーマンスや振付、音楽など、ジャンルの境界を意識することなく、とにかく興味の赴くままに実験を重ねていました。

 その後、1980年代のニューヨークへ移り住み、PS1アーティスト・スペースやザ・キッチンといった場所で、初のパブリックなメディア・インスタレーションを始めたとき、街のエネルギーはさらに強烈でした。治安は悪く、とても荒々しい場所でしたが、そのぶん創造性に満ちていました。ちょうど「No Wave(ノー・ウェイブ)」が生まれた時代で、ロサンゼルスではThe GermsやBlack Flag、ニューヨークではSuicideやTeenage Jesus and the Jerks、DNAなどを夢中になって聴いていました。さらにグレン・ブランカやリース・チャタムが実験的なギター音楽を展開し、その流れからソニック・ユースも生まれていきます。

 当時は、その環境の真っただ中で生きていただけでした。でも振り返ると、本当に特別な時代でした。なかでもグレン・ブランカとの出会いは、その後デヴィッド・ボウイとの共同プロジェクト《空(くう)》(2000)へとつながっていく、大きな転機だったと思います。

デヴィッド・ボウイ、グレン・ブランカとの共同プロジェクト《空(くう)》(2000) 撮影:木奥惠三 写真提供:TOKYO NODEインタビュー

編集部