上野の東京都美術館で、アンドリュー・ワイエス(1917〜2009)の没後日本初となる回顧展「東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展」が、7月5日まで開催されている。
ワイエスは20世紀のアメリカ絵画を体現する画家でありながら、戦後に脚光を浴びた抽象表現主義、ネオ・ダダ、ポップ・アートといった潮流からは距離を置き続けた。描かれるのは、彼の暮らしの周囲にあるごく限られた人々と土地。だがその私的な圏内から立ち上がるイメージは、見る者の経験を呼び起こす普遍へと開かれていく。ワイエスの絵画世界に通底する「死生観」、そして本展が光を当てる「境界」というテーマは、現代日本のリアリズム絵画を牽引する画家・諏訪敦の目に、どのように映ったのか。
自画像が映し出した葛藤
最初に諏訪が足を止めたのは、ワイエスが28歳の頃に描いた《自画像》(1945)の前だ。ナショナル・アカデミー・オブ・デザインへの入会審査として課された1枚であり、数少ない自画像のひとつに当たる。本作が描かれた1945年は、20世紀初頭のアメリカン・イラストレーションを代表する画家であり、ワイエスの父でもあったN.C.ワイエス(1882〜1945)との確執がもっとも激しかった時期のただ中であった。そして、父が不慮の事故で世を去った年でもある。

「印刷物やインターネット上の画像で、この作品は先に見ていたのですが、顔面の描写が平板で、ツルッとしたイメージを抱いていました。ところが、やはり絵画は実物に接しなければわかりませんね。階層的に筆跡を重ねて、色彩と量感を与えていくテンペラ画特有のニュアンスが認められ、見応えがあります。ワイエスはさほど自画像が多くない画家であったと聞いていますが、この絵ではしっかりと携えたスケッチブックが、彼の唯一の頼みであるという決意を示しているようで、ドラマを感じます」。

そもそもワイエスは、対象が自分を意識していない状態でこそ描きたいと考えた画家である。自分自身を見つめ直さざるを得ない自画像は、その志向と真っ向から対立する形式だった。
「ワイエスは後年、自由で絵具に任せるような、ラフで柔らかな方向へと向かっていきますが、この頃の筆致はまだ硬く、生々しい感情が伝わってきます。とりわけ初期の自画像は表情に険があって、この人物の表情の暗さは喪失感の表れであるとともに、父親とぶつかり合った記憶からきているのでしょうか……。売れっ子の挿絵画家であった父親のN.C.ワイエスは、イラストレーターとして成功を収めたことで、裕福で文化的な生活を家庭にもたらしました。息子の技術指導者としては優秀な存在であったようですが、時に抑圧的で、絵の内容に口を出すことさえあったそうです。『売れる絵』を描く職能を身につけさせるべく、厳しい態度で臨むことが、唯一、息子にしてあげられる貢献と考えていたのかもしれません。そのいっぽうで、自分がなれなかった“純粋芸術家”になるよう説き続けていたといいます。これは若いワイエスにとって大きな心理的重圧でもあったでしょう。この自画像はナショナル・アカデミー入会審査の提出作品であったわけですが、自律的な創造の象徴である、スケッチブックを携えています。この姿は、父親の影響から決別する意思を固めた人物として、自らを画中で演じさせることで父親に応えているように見えます」。
ワイエスはアカデミックな美術教育を受けていない。病弱で学校にも通えなかったため、描写の基礎は父から学んだ。対象を注意深く観察し、目の前にないものでもそこにあるかのように描けるようになるまで反復し、画家としての力を蓄えていった。そんなワイエスがテンペラに取り組み始めるのは、1930年代後半のことである。最初の会場には40年代にかけての初期作が並ぶが、諏訪はそこにも「硬さ」を見出した。

「初期作品の描写は、どれも真面目な印象ですね。次第に描写は柔らかくなり、筆が踊るような自在さが現れてくるのですが、このあたりはまだ緻密ながら平板で、硬さが目につきます。でもいっぽうでは近代の日本画家たちが写生帖を懐に、日常的にこなしていた習作のような実直さがありますね。絵としての完成度はまだ高くないのかもしれませんが、その素朴さに惹かれるところがあります」。後年のワイエスの表現を支えているのは、このような初期に積み重ねた観察の鍛錬でもあると言えるだろう。
「ルネサンスの透視図法(線遠近法)は、建築家たちにより幾何学の応用として始められました。それは絵画空間に統一感をもたらしましたが、その技術にばかり拘泥すると、どこか硬直したような印象になります。ワイエスも線遠近法をもちろん体得していたはずですが、それが通用しないような、視野の周辺に延々と広がる大自然の広大な空間も数多く描いていて、体感的な光の演出がなされています。理屈の及ばないところにまで自在に空間を立ち上げることができたのは、望むと望まざるとにかかわらず、記憶の力を重視して劇的な演出に長けていた、父親からの薫陶が生きていたのかもしれません」。
「物」が人を語るとき
ワイエスは生涯にわたり、ごく身近な人々を繰り返し描いた。妻のベッツィをはじめ、クリスティーナ・オルソン、そしてヘルガ・テストーフを描いたシリーズがよく知られる。いっぽう、本展で印象的なのは、人物の不在を物によって表現する作品群だ。諏訪は、人物が描かれていない作品と、特定の人物をモデルにした作品とを比べながら、そこに通底するものを次のように分析した。「ワイエスが描いたのはその人の気配……名残でしょうか。彼はモデルがいたとしても、審美的な意味でその容貌をほとんど気にしていなかったと思います。彼は人に内在する尊厳に魅力を感じていて、モデルが不在の作品は、外見の情報を伝えなくても“その人”を語れるという判断だったのかもしれません」。


ワイエスのもとには「自分を描いてほしい」という依頼が数多く寄せられたが、彼は「知らない人間は描けない」としてすべて断り、前述したように特定のモデルを繰り返し描いた。本展の注目作のひとつ《クリスティーナ・オルソン》(1947)に描かれた、家の戸口に座り、遠くを見つめるクリスティーナもそのひとりだ。歩行が困難だったクリスティーナは、いつも同じ場所で過ごしていた。この作品の前で諏訪は、画家としての自身の経験も重ねながら分析する。
「モデル未経験者に初めてポーズを取ってもらうと、気の毒なほど緊張するものですが、過度な緊張感は持続できないものです。ましてや長時間の固定ポーズなどは期待できません。私自身も画家を始めた頃に、眠る人を幾度も描いてきたのは、寝姿はポーズの技術を必要としないから、という現実的な判断があってのことでした。その点、同じ場所に居続けるクリスティーナは、それが病身ゆえの習慣からくるものだったにせよ、ワイエスにとって得がたい存在だったはずです。本展の白眉は、《クリスティーナ・オルソン》とそれに至るまでのスケッチが一堂に会するこの壁面でしょう。クリスティーナのスケッチはその後の作業の必要を見越してか、かなり精緻に写していて、固く結ばれた髪が印象的です。注目したいのは風にたなびくカーテンの動きと、クリスティーナの頭部がまるで二重露光のように描かれた1枚です。完成作品ではほどけた髪に転換されている、髪と風になびくカーテンの動きを描いた曲線のシンクロは、私たちに画家がイメージを広げるプロセスを見せてくれています」。
ワイエスの水彩の魅力
続く展示室には、1939年から68年にクリスティーナが亡くなった翌年までの30年間、繰り返し描かれた「オルソン・ハウス」シリーズが並ぶ。ここで諏訪が足を止めたのは、雪景色の《オルソンの家》(1969)だ。住む人を失った家は冷え切っている。だが台所のひとつの窓だけが、ぽつりと灯っている。この水彩画の前で、諏訪は技法上のポイントを次々と指摘した。

「暗い描画面のうえから水彩絵具の白で塗りつぶしても、手付かずの紙の奥底から光るような白さは戻りません。ワイエスはとくに明暗が際立つ、光の反射の部分の多くは、紙の地をあえて残して表現しており、紙の奥から光が輝くようです。現代の水彩画家たちがマスキングやドライブラシを多用しているのは、少なくとも日本では、ワイエスからの影響が大きかったのではないでしょうか。また、このように紙の地の色をそのまま生かしている部分もあれば、ハイライトや雪のしぶきの表現には、上層に不透明な白の絵具をスパッタリング(絵具を飛散させる技法)してもいます。時には部分的に描画層を削るようなことも。窓の奥に見える、反対側の窓からの光線を描き込むことで世界の広がりを示すセンスなどは、抜群ですね。白ひとつ取ってみても、ワイエスによる様々な試行錯誤を見て取れます」。
諏訪は水彩画の本質を「コントロールの技術」と呼ぶ。絵具のにじみは、人の手で完全に制御できるものではない。それでも、どこをにじませて、どこで止めるか、その見極めには画家の経験が問われるのだという。雪とわずかに曇った空との階調差を破綻なく描き分けるワイエスの手つきに、諏訪は驚きを隠さなかった。
「塗り絵のように縁取られた範囲を定量的に塗るというのではなく、一見、ラフに絵具のにじみや筆さばきの流れに任せているようですが、明暗とコントラストを見極める感覚はすばらしいと思います。画面の中で水性絵具が彩った偶然のにじみから取捨選択し、破綻のないヴァルール(valeur。色彩の明度、彩度、色相)で画面を構成するには、相当な画力が必要です。また、水彩はもともと重ね塗りに向かない技法で、色数が増えていくほどに彩度が落ちて色彩は死んでゆくものですが、ワイエスはテンペラではハッチング(細かい線をいくつも平行させたり交差させたりすることで陰影を表現する技法)を、水彩画ではアルブレヒト・デューラーに学んだと言われるドライブラシ(筆に少量の絵具をつけ乾いた状態で描く技法)を導入することで、その問題を克服しています。ばらついた筆先の隙間から下層塗りを覗かせる、対比を利かせた描き方で、画面はマットなのに、色彩の純粋さや透明感を保っています。ワイエス自身も『織物』になぞらえているように、敷き詰めるようなストロークをもって、独特な画面のハリを実現していますね」。
余韻に宿るもの、「狭さ」という美学とは何か
展示の終盤、《薄氷》(1969)の前で諏訪はひときわ長く言葉を継いだ。本作はワイエスにとって個人的な意味をもつ1枚だ。描かれた前年の1月には、もっとも重要なモデルだったクリスティーナが世を去っている。氷の下に沈む枯れ葉は、ワイエスが購入者に宛てた手紙によれば、葉の一つひとつが画家自身の経験や出会ってきた人々を表すのだという。死を思わせる構図のなかに、水の流れを示す気泡と、氷の上に顔を出す1枚の葉が描き込まれ、生と死が連続するものであることを物語っている。

「ワイエスは非実在をあたかも実在するかのように描く、マジック・リアリストに分類されたこともあったようですが、その種の絵画にありがちな過剰演出はこの《薄氷》には見られません。むしろ自然の中から、人の心性に届く現象を拾うように、簡素なイメージを差し出しています。描かれているのは色褪せた枯れ葉、水、氷、そして光の現象だけです。彼がアメリカの国民画家とまで言われ、大衆的な人気を獲得できたのは、背後に人間の存在が濃厚に香る、スケッチブックに蓄積してきたような経験を大切にしていたからだと思います。アメリカにもその歴史なりの郷愁があり、ワイエスのプライベートな視線が抽出した、壊れ、流されていくようなビジョンは、多くの人たちの感情に、じんわりと寄り添うものだったのではないでしょうか」。

本作を前にしながら、諏訪は本展を通じて感じたワイエスのすごさを次のように語った。
「抽象表現主義絵画をはじめとした、いわゆる前衛を偏重する批評家からは、ワイエスは“概念的な独創性に欠ける大衆的写実主義者”とされたことが伝わっています。でも時代を経て、現代の視点で検討すると、この批判には一方的な印象を受けます。つまり純粋な美学的議論だけではなく、この“嘲笑”には冷戦下での文化政治という側面が隠されていて、そこを加味して捉えるべきでしょう」。いっぽうで諏訪は次のようにも語る。
「とはいえあの時代には、フォトリアリズムも流行し、たんに高度な再現描写という点では、ワイエスは特別な存在ではなくなっていました。さらには描く題材の“狭さ”も、『国際的な視野を欠く』という当時の批判の根拠になっていました。しかし、アメリカには “巨大な田舎”という側面もあるはずです。にもかかわらず批評家たちには、ペンシルべニア州とメイン州という地域の農村風景から離れなかったワイエスの姿勢は、保守的な地方画家の姿に映ったのでしょう。ただ、私には、そのワイエスの“狭さ”こそ、最大の美点であったように思えるのです。本展にはあえて多くを1枚の絵で語ろうとしていない作品が選ばれていますね。今回の出展作の多くは断片的にさえ見えますが、季節を感じさせる記号のようなモチーフもよく描き込まれています。ツバメや枯れ野、そして雪原。盛っていくのではなく、不要な要素を徹底的に削ぎ落とし、静寂と内省を促すところに、日本文学に共通したものを感じられます。例えば俳句は、五・七・五の韻律という極限の省略によって余韻を生む形式です。日本の文化とワイエスのあいだには、直接的な影響関係はありませんでしたが、“何度でも推敲し簡素さを追求する”この創作の姿勢こそが、文化的なバックボーンに接点の薄い私たち日本人にまで、ワイエス作品が美学的共鳴を生んでいる秘密でもあるのかもしれません」。





























