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レンブラントとは何者だったのか。17世紀オランダ絵画の研究者・深谷訓子の言葉から探る

レンブラント・ファン・レイン(1606〜69)の銅版画家としての足跡を辿る展覧会「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」が国立西洋美術館で開催される。会期は7月7日~9月23日。誰もがその名前を知る画家・レンブラントの生涯とはどのようなものだったのか。また、その作品を現代において見る意義はどこにあるのか。17世紀オランダ絵画を研究する京都市立芸術大学美術学部教授・深谷訓子の言葉で迫ります。※7月5日24時まですべての方に全文お読みいただけます

聞き手・構成=安原真広(編集部)

レンブラント・ファン・レイン《驚いた表情の自画像》(1630)紙にエッチング、ドライポイント 5cm×4.5cm レンブラント・ハウス美術館

裕福な生い立ちと画業の習得

──レンブラント・ファン・レインはどのような生い立ちだったのか、芸術家となる前史をお聞かせいただけますか。

深谷訓子 レンブラントは1606年、オランダ・ライデンで製粉業を営む家庭に生まれました。麦や小麦粉は、パンづくりやオランダで盛んだったビールの醸造業など、日常的にどうしても必要とされる物ですから、まさに社会の基礎産業の一翼を担っていたといえます。17世紀のライデンの地図にはファン・レイン家が所有していた風車が記されているほどで、ゆとりのある家庭に育ったことは間違いありません。

──当時のオランダは、ハプスブルク家やスペインとの関係において、すでに独立を宣言していたものの、まだスペインの支配下にあるという、非常にデリケートな時期でしたよね。

深谷 1568年からスペインに対する反乱が始まっており、最終的には1648年に独立しますが、レンブラントが誕生して間もない1609年頃から12年間は停戦条約が結ばれ、一時的な膠着状態に入った時期です。オランダが独立へと向かう確かな気配はありつつも、まだ完全に未来が決定してはいなかった、そういう時代でした。

 独立に向けた反乱の過程で、南ネーデルラントから資産や職能を持つ人々がオランダへと逃れてきたため、国内の産業はむしろ発展していきました。また、オランダの戦略によって貿易の中心地であったアントウェルペンの港が封鎖されたため、行き場を失った船がこぞってアムステルダムへと向かうようになります。これによりアムステルダムが商業的に大発展を遂げたという背景もあり、非常に豊かな芸術を生む土壌が整っていたのです。

──レンブラントは当初、画家を目指すのではなくライデン大学へ進学します。当時のレンブラントはどのようなキャリアを志向していたのでしょうか。

深谷 家業は兄が継いでいたため、レンブラント自身は継ぐ立場ではなかったのですが、親は彼に官吏などの公職に就いてほしいと願ってライデン大学に進学させたのだと思います。しかし、結果として彼は大学での勉強を継続しませんでした。その正確な理由は、はっきりとはわかっていません。ライデン市長のヤン・オルレルス(1570〜1646)によるレンブラントの伝記などでは「勉強に身が入らず絵画芸術にばかり興味があった」という決まり文句で説明されていますが、本当にそれだけが理由だったのかは定かではありません。オランダの不安定な政情を見据え、政治に左右される官職を目指すよりも手堅く手に職をつけたほうがいい、という判断があったのではないかと推測する研究者もいます。

 ここで留意しておきたいのは、当時のオランダにおいて、「画家」という職業は決して不安定なものではなかったということです。17世紀のオランダで人気を博した、ヤーコプ・カッツが当時の道徳・処世訓を記した『結婚指輪』(1625)という本があります。そこに収録された話のひとつとして、美しい娘のもとに様々な職業の求婚者が現れて自らの職業の魅力をアピールするものの、最終的には画家がその娘を射止めるという話が語られます。画家という職業は自分が描けばいくらでも商うものをつくりだせ、商人のように荷物が紛失したや船が沈んだりするというリスクもなく、さらに宮廷へも出入りできて高貴な人々とも付き合える。17世紀のオランダでは、そのような手堅い職業とみなされていました。

 また、現代には写真やインターネットがありますが、この時代の画家は、仮に腕が拙くとも、看板描きや家具の絵付けといった仕事がたくさんありました。歴史に名を残すような成功を収める画家はひと握りですが、職業として食べていくという意味では、需要にあふれた時代だったと言えます。

レンブラントはいかにして美術を学んだのか

──その後、レンブラントは大学を辞して、本格的に絵を学ぶことになります。最初の師はどのような人物で、どのような技術を学んだのでしょうか。

深谷 レンブラントが最初に就いたのはヤーコプ・ファン・スワーネンブルフ(1571〜1638)という画家です。彼はライデンで画家として活躍し、政治家としても実績を残したイサーク・ファン・スワーネンブルフ(1537〜1614)という画家を父に持っていました。レンブラントにとっては、同じ町にいる非常に評判の高い画家の息子、という位置づけの人物だったはずで、同じ町の画家に弟子入りするというのも、自然な流れだったと思われます。

 レンブラントは2〜3年をスワーネンブルフのもとで過ごします。具体的にどのような影響を受けたかについてはあまりわかっていませんが、作品を比較しても類似点はたいして見当たらないため、基本的には基礎的な修業をしたと考えられます。パネルの下準備や、キャンバスの張り方、当時は既製品がなかった絵具のつくり方や地塗りの方法といった、絵画の基礎技術を教わったはずです。

 むしろレンブラントの作風や技術に影響を与えたのは、次の師となるピーテル・ピーテルスゾーン・ラストマン(1583〜1633)だったと思われます。彼はイタリアへ留学して帰国した後、アムステルダムで活動していました。「物語画」を得意としていた画家で、さらに当時の画家のなかでは豊かな蔵書でも知られており、その知識を実作に反映させる画家でした。例えば古代ローマの物語を描く際には、当時の風習を忠実に画面に反映させるなど、非常に工夫を凝らした形跡が見られます。

レンブラント・ファン・レイン《バラムとロバ》(1626)パネルに油彩 63.2×46.5cm コニャック・ジェイ美術館(フランス、パリ)
ピーテル・ピーテルスゾーン・ラストマン《バラムとロバ》(1622)パネルに油彩 41.3×60.3cm イスラエル美術館(エルサレム)

 レンブラントは、このラストマンから多くのことを学んだに違いありません。西洋美術史における画題には、キリスト教やギリシャ・ローマ神話から採られたいわば「定番」がありますが、ラストマンはこれまでに描かれたことのない新しい題材を描くなど、非常に開拓心に満ちた画家だったのです。レンブラントはラストマンのもとで、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢や、主題を開拓する方法、そしてそれを表現するための工夫を、短い期間ではありましたが深く学んだのだと思います。例えば《バラムとロバ》(1626)に描かれた、旧約聖書のバラムとロバの物語などは描かれることの少ない主題ですが、ラストマンの試みに応じるかのように、レンブラントも同主題の作品を制作しています。

──そのほか、レンブラントに影響を与えた画家はいるのでしょうか。

深谷 彼が若い頃にアトリエを共有していたヤン・リーフェンス(1607〜74)の存在は、大きいと言えるでしょう。リーフェンスもレンブラント同様にラストマンに学んだ画家です。彼らはほとんど同い年で、お互いに切磋琢磨し合うライバルであり、友人でもありました。家も徒歩5分ほどしか離れていない場所に住んでおり、お互いのアトリエを頻繁に行き来していたようです。それぞれの絵画についての議論を交わし合える関係性だったのでしょう。若い頃のレンブラントにとって、リーフェンスとの関わりは極めて大きなものでした。

 また、ライデンの町にはかつてリューカス・ファン・ライデン(1494〜1533)という非常に高名なエングレーヴィング(ダイアモンド様の固い刃のついた器具「ビュラン」を使い、銅版に線を彫り、その溝にインクを埋めて刷ることで作品にする、エッチング以前に主流だった版画技術)を手がける作家がいました。彼はレンブラントより100年ほど前の時代の人物ですが、地元で活動した重要な作家としてレンブラントが意識していた可能性は大いにあると思います。

ハイヘンスとの出会いと感情表現の強み

──レンブラントは活動の初期から若くして人気画家に上り詰めていくわけですが、彼が高い評価を得た最大の理由はなんだったのでしょう。

深谷 私が一番大きかったと考えているのは、レンブラントのアトリエを訪れたパトロンたちも指摘している「卓抜した感情表現」です。彼が20代前半の頃、オランダ総督の秘書官であり宮廷の美術を担当するエージェントでもあったコンスタンティン・ハイヘンス(1596〜1687)がアトリエを訪れ、レンブラントとリーフェンスの作品を目にしました。その際、ハイヘンスはレンブラントの油彩画、とくに《銀貨を返すユダ》(1629)を大絶賛し、まだ髭も生えそろわないようなオランダの若者が、この作品で古代の作家にもまったく劣らない、すさまじい表現を達成している、と言ったのです。ハイヘンスが絶賛したポイントこそ、まさにその「感情表現」でした。

レンブラント・ファン・レイン《銀貨を返すユダ》(1629)パネルに油彩 79×102.3cm マルグレイブ城、ノース・ヨークシャー、スコットランド

 このハイヘンスに見出され、オランダ総督の周辺からの高額な注文の数々を受注できたことは、レンブラントのキャリアにおいて非常に大きなことだったと思います。総督のフレデリック・ヘンドリック(1584〜1647)や、腹心であるハイヘンスが作品を頼んでいるとなれば、ほかのパトロンたちの注目も集まりますし、実際に、この時期の彼らは、ボヘミア王フリードリヒ5世(1596〜1632)の2人の息子とそれぞれの家庭教師の肖像画などを受注しています。このように、レンブラントの初期の評価においては、ハイヘンスの周囲の仕事を多くこなしたことが決定的な役割を果たしました。

銅版画へのこだわり

──今回、国立西洋美術館で開催される展覧会は「銅版画家レンブラント」というテーマで、版画作品の展示が大きな割合を占めています。レンブラントはエッチングやドライポイントといった技法を使った銅版画に、いつ頃から取り組んでいたのですか。

深谷 はっきりとした年代は不確定ですが、1625年頃だと思われます。レンブラントが20歳になったばかりの頃、リーフェンスと同時期に取り組み始めているため、ふたりで一緒にやり始めたのだろうと考えられます。

──当時のオランダでは、レンブラントのように銅版画に積極的に取り組む画家は多かったのですか。

深谷 意外と少ないと思います。銅版に直接彫り込むエングレーヴィングは職人技が必要なため、版画専門でもない限り、手がける画家はほとんどいませんでした。いっぽう、エッチング(防食剤を塗った銅版を引っかくことで金属部を露出させ、その削られた部分を酸などに浸して腐食させて凹みをつくり、インクを流し込んで印字する方法)も、専門の設備や酸性溶液の調合、腐食の時間といった高度な知識が必要なため、手がける画家はそこまで多くはありませんでした。レンブラントとリーフェンスが師事した画家にも銅版画の専門家はおらず、レンブラントが誰からこの技法を教わったのかわかっていません。候補としてはヨハネス・ファン・フリート(1600/10~68)やジャック・デ・ヘイン3世(1596~1641)といった版画家が挙げられてきましたが、独学に近かったのではないか、とも目されています。

──レンブラントの作品はエッチングとドライポイント(エングレーヴィングと同様に腐食を使わず、銅版を直接彫り込む技法。鉄筆を使うことで彫りの両端が盛り上がり細かな滲みなどが表現できる)を組み合わせて陰影を巧みにつくった作品も多く、これら銅版画の技法を意識的に使い分けていることが作品から伝わってきます。このようにレンブラントが銅版画に強い関心を持った理由をどのように考えていらっしゃいますか。

深谷 レンブラントは油彩画においても明暗への強い関心を持っていましたから、油絵具のマチエールとはまた違う質感で、線を主体にしながら絵画的な明暗を紙の上でつくり出す銅版画に、深い興味があったのだと思います。わずかな変更で見え方が劇的に変わりますし、一度彫った銅版に少し手を加えて別の状態(ステート)をいくつも刷り出していくプロセスは、彼にとって興味深いものだったのでしょう。

レンブラント・ファン・レイン《病人たちを癒すキリスト》(1649頃)和紙にエッチング、ドライポイント、ビュラン 28.2cm×39cm レンブラント・ハウス美術館

 もちろん、レンブラントの版画がよく売れた、というのも大きな理由だと思います。レンブラントは浪費家で、つねに資金を必要としていましたから、版画をたくさん売るたことは重要でしたし、17世紀は、版画コレクターたちもある種の競争心も抱きつつ、非常に貪欲に活動していました。そのため、レンブラントはステートをたくさんつくってみたり、わざわざ高価な羊皮紙に刷ってみたり、日本から輸入された高いクオリティを持つ和紙を使ってみたりすることで、彼らのコンプリート欲や変わったヴァージョンへの興味をかき立てたのです。このようにバリエーションをつくることで、作品を集める人々の購買欲を刺激するやり方は、ほかの作家に比べても飛び抜けて上手でした。

アムステルダムでの活躍と代表作《夜警》

──1639年、レンブラントは拠点をアムステルダムに移し、画家としての全盛期を迎えます。この時期の特徴や特筆すべき事項について教えてください。

深谷 アムステルダムでのレンブラントの活動はいくつかのフェーズに分かれます。最初、レンブラントはヘンドリック・ファン・アイレンブルフ(1587〜1661)という画商が所有するアトリエに住み込みます。アムステルダムを本拠地とするアイレンブルフは有力なパトロンとのつながりを持っていたため、レンブラントは彼を通じて注文主と知り合い、肖像画などを受注したと思われます。このアトリエには1630年代の途中まで滞在しました。また、この画商の親戚である妻のサスキア・ファン・アイレンブルフ(1634〜 42)とも1634年に結婚しています。

レンブラント・ファン・レイン《プロセルピナの略奪》(1631)パネルに油彩 84.8×79cm 絵画館、ドイツ、ベルリン
レンブラント・ファン・レイン《ガニュメデス》(1635)キャンバスに油彩  177×129cm ドレスデン美術館、ドイツ

 30年代は肖像画に力を入れるいっぽうで、《プロセルピナの略奪》(1631)や《ガニュメデス》(1635)など、ギリシャ・ローマ神話を主題とした神話画をこの時期に数多く描いています。師であるラストマンが手がけていたような表現に自分も挑戦したいという関心と、肖像画を描くことでアムステルダムの人々に認知され、知名度を確立して経済的にも成り立たせていくという2つの目的をこの時期にしっかりと果たしていました。17世紀のオランダの絵画といえば一般的には風俗画や風景画のイメージが強いですが、レンブラントはむしろルネサンス期に理想とされたオールラウンダーの画家でした。物語画や歴史画を描ける自分でありたいという強い思いも、レンブラントのなかにあったのです。

 また、レンブラントは、人間の感情表現やリアクションというものに強い興味を持っていました。版画においても、自分の顔を鏡に映して驚いた顔や笑っている顔などを数多くつくっていますし、油彩画でも従来の画家たちが型にはまった表現をしていた場面──例えば《プロセルピナの略奪》のように、女性がさらわれるときに美しく手を振り上げて嫌がるポーズを描くのではなく、男性の顔面を必死で引っ掻き、腹部に蹴りを入れるといった、美しくはないがリアルなリアクションを描き出していました。レンブラントの頭につねにあったのは「このような状況が起きたら、人間は一体どんな身振りをし、どんな表情をするのか」というリアリティへの問いであり、その追求こそが彼の強烈なこだわりだったのです。

レンブラント・ファン・レイン《驚いた表情の自画像》(1630)紙にエッチング、ドライポイント 5cm×4.5cm レンブラント・ハウス美術館

 加えて、コレクターとしての側面も重要です。レンブラントは過去の画家たちの素描や版画、あるいは油彩作品を数多く買い集めており、充実したコレクションを所有していました。その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》(1495-98)の複製版画もありました。こうした過去の名画を何度も何度も、少しずつ変えながら模写し、その登場人物の何人かを自分の版画に登場させたりといった学びを盛んに行っています。

名作《夜警》をめぐる不評の真相とディテール

──レンブラントの代表作として広く知られる《夜警》(1642)についてお聞きします。本作は「いまは美術史に残る名作とされているが、制作当時は不評だった」という逸話が語られていたりしますが、実際のところはどうだったのでしょうか。

深谷 アムステルダム市民隊の依頼を受けて描かれた本作は、描かれた人物たちがそれぞれ支払った金額と、実際に描かれた人物の大きさが対応しておらず不評を買った、といった逸話が語られてきました。確かに、本来は割り勘定であるはずの代金を、隊長と副隊長が多めに負担した、とは言われていますが、作品それ自体の不評を裏づける明確な証拠は知られていません。

レンブラント・ファン・レイン《夜警》(1642)キャンバスに油彩 379.5×453.5cm アムステルダム国立美術館

 17世紀後半に出された美術理論書などでは「アイデアがじつに絵画的で、配置が流れるようであり、きわめて力強いから、これに並ぶほかの作品がトランプのカードのように見えるという意見も聞かれる」などと絶賛されており、当時から絵画として高い評価を得ていたことは間違いなさそうです。この作品を境にレンブラントへの注文が減ったということが語られたりもしますが、顕著に見られるわけではありません。「不評だった」という逸話は、根拠のない推測が大きく膨らんでしまった話なのだろうと考えています。

──では、《夜警》はなぜレンブラントの画業を代表し、傑作とされているのでしょう。

深谷 決定的なのはその「スケール」ではないでしょうか。作品を置く場所として個人の家が一般的となり、大きなサイズの作品を制作する機会が少なかった当時のオランダにおいて、あの規模の作品を描けるチャンスは極めて貴重でした。画面に仕込まれた無数の緻密なディテールの工夫を見ても、彼自身が特別な気合いを入れて制作した作品であることは間違いありません。

《夜警》(部分)。銃口から出た白い煙が、副隊長の帽子の白い羽飾りと絶妙に溶け合っている
《夜警》(部分)。手の影のかたちが衣服に刺繍されたアムステルダム市の紋章をちょうど掴むような演出がされている

 例えば、副隊長の頭のすぐ後ろで誰かが銃を発砲しており、その銃口から出た白い煙が、副隊長の帽子の白い羽飾りと絶妙に溶け合っています。また、中央の隊長が前に出した手の影が、隣を歩く副隊長の衣服の上に落ちていて、その影のかたちが衣服に刺繍されたアムステルダム市の紋章をちょうど掴むような演出がされています。こうした、絵の中に散りばめられた知的な企みこそが、この作品を魅力的にしていると言えるでしょう。

 ただし、残念ながら本作は、画面(とくに左側と下方)が切り取られてしまったため、本来意図されていた空間の余裕が損なわれており、少し窮屈な印象になってしまっています。しかし、当時の模写を見ると、本来の構図はより見事なものだったと推察されます。

 市民たちが自らの町を警護するために結成した組合のメンバーを、集団肖像画として全員平等に描くというアプローチは、市民社会の先駆けとしてのオランダを象徴するのに非常に適しており、そのことも、本作がいまなおオランダという国のアイデンティティを担う作品とされている理由のひとつなのかもしれません。

創作の陰りと現代においてレンブラントを見る意義

──いっぽうで、1640年代の後半に入ると、レンブラントの人生は経済面においても私生活においても下り坂になっていったとされています。その要因について教えてください。

深谷 まず、家族をめぐる問題がありました。1642年に妻・サスキアが若くして亡くなります。レンブラントは息子・ティトゥスの乳母であるへールチェと呼ばれる女性と内縁関係になりますが、そこに新しくヘンドリッキェ・ストッフェルス(1649〜1663)という、新たな内縁の妻となる女性が現れます。そのため、レンブラントはへールチェから「婚姻の約束を破棄した」として訴訟を起こされてしまいます。最終的にへールチェは精神を病み、病院に収監されてしまいましたし、このときのレンブラントの立ち回りは冷酷なものだったと言っても過言でありません。

 最初の妻であるサスキアは、フリースラント市長の娘という身分の高い生まれで、レンブラントに多額の財産をもたらしました。彼女が亡くなった後、その遺産はレンブラントと息子・ティトゥスが相続したのですが、サスキアの遺言には、再婚した場合はすべての遺産をティトゥスに渡すとありました。しかし、レンブラントは浪費家だったので息子の取り分まで使い込んでしまっていたのです。こうした経緯は、規範意識の強いオランダ国教会から激しく批判されるようになりますし、レンブラントは亡くなる直前まで遺産相続の問題で、サスキア側の親戚とずっと揉め続けます。そうした一連の過程で、金策が回らなくなった結果、最終的に1656年に破産へと至るのです。とは言っても、肖像画を含めて注文は続いていましたし、1650年代に入っても公的機関からの注文もなくなるわけではなく、旺盛な制作活動を続けました。

──では、レンブラントの評価に決定的な影響を与えたものはなんだったのでしょうか。

深谷 レンブラントの晩年となる1660年代にかけて、オランダ絵画市場の流行と、レンブラントの目指す芸術の方向性が決定的に合わなくなっていきます。レンブラントの最初の弟子にヘリット・ダウ(1613〜75)という画家がいました。彼はレンブラントのもとで学んだ後、細部を徹底的に細かく描く様式へと自らのスタイルを展開させ、彼が発展させたその描き方が1660年頃のオランダで絶大な人気を博すようになるのです。

レンブラント・ファン・レイン《水浴する女》(1654) パネルに油彩  61.8×47cm ナショナルギャラリー・ロンドン
レンブラント・ファン・レイン《ユダヤの花嫁》(1665-69頃)キャンバスに油彩 121.5×166.5cm アムステルダム国立美術館
レンブラント・ファン・レイン《二つの円のある自画像》(1665-69頃)キャンバスに油彩 114.3×94 cm ケンウッド・ハウス、ロンドン

 世間の関心がこうした「精緻な美」へと向かうなか、レンブラント自身はまったく逆の方向へと突き進んでいきました。厚塗りの傾向は、すでに1650年代の《水浴する女》(1654)から見られ、《ユダヤの花嫁》(1665-69頃)や《2つの円のある自画像》(1665-69頃)など、晩年になればなるほど、彼は絵具を分厚く塗り重ね、荒々しいストロークを追求するようになります。市庁舎のために制作した《クラウディウス・キウィリスの謀議》(1661-62)などのように、せっかく機会を得て描いた作品を、注文主から突き返されてしまうという事態も起こりました。このとき、市庁舎を飾る絵画として12点ものまとまった注文を獲得したのは、かつてレンブラントの弟子だったホーファールト・フリンク(1615~1660)でした。見方によっては、弟子に負けた、とも言えるでしょう。

レンブラント・ファン・レイン《3本の十字架》(1653)全5ステート中の第4ステート プレートトーンにエッチング、ドライポイント 38.5×44.9cm アムステルダム国立美術館

 しかし、レンブラントは決して世間に迎合しませんでした。経済的な成功だけを追い求めるのであれば、ダウのような精緻な様式は無理だとしても、世間に受け入れられる範疇の絵を描く腕は充分にあったはずですが、新しい表現と尖った方向性を、晩年になっても堂々と打ち出し続けました。破産後はエッチングの制作は下火になってしまいますが、50年代のエッチング《3本の十字架》(1653)などでも、ステートが進むにつれて明暗表現や線の強さが劇的になっており、そこに彼の強いこだわりがあったのだと思います。

──最後に、現代においてレンブラントの作品を見ることの意義について、深谷さんのお考えを聞かせていただけますか。

深谷 個人的な見解になりますが、大きな意義は2つあると考えています。1つは、シンプルすぎるかもしれませんが、圧倒的な技術と画力の高さを理屈抜きに実感できる点です。エッチングにおける一本の線の運び、明暗のつくり方、あるいは油彩画における力強くかつ的確なストロークなど、背景にある意味やコンセプトがわからなくとも、画面から放たれる絵の力だけで、見る者を納得させるすごみがあります。こうした点は、近年ではあまりにも審美主義的としてアカデミックな世界では積極的に言及されない傾向があるように思いますが、彼が体現している美術の本質的な魅力です。

 もう1つは、彼が作品に映し出した人間への眼差しの現代性です。私生活を掘り下げれば、レンブラントは人格的に問題がある冷酷な人物だったのではないかと指摘する研究者もいます。しかし、不思議なことに、彼の作品の画面に現れる人間への眼差しは、驚くほど温かく、そして平等です。彼は当時のキリスト教的・社会的な規範や「この身分の人間は、こう描くべきだ」という偏見の型に囚われませんでした。社会の表舞台に立てない弱者、物乞い、あるいは歴史や聖書の中で伝統的に「悪役」とされてき人物に対しても、レンブラントはその人物の心に感情移入するような表現をしています。従来の型を打ち破る新たな解釈や、人間全般への寄り添いが彼の作品には数多く見られます。その精神性は、現代を生きる私たちの心にも響くのではないでしょうか。

編集部