高知市の高知県立美術館で「高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治」が開催されている。会期は2月28日〜3月31日。担当は同館主任学芸員の塚本麻莉。
本展は戦後高知の前衛美術運動を牽引した2人の作家、高﨑元尚(1923〜2017)と浜口富治(1921〜2009)の活動を軸に、高知で生まれた前衛美術運動とその終焉までをたどることで、日本の戦後美術史の一局面に光を当てる試みだ。
高﨑と浜口、高知の前衛を紹介するうえで、なぜこのふたりに焦点を当てたのか。担当の塚本は本展の図録に次のように記している。「本展がこのふたりを軸に据えたのは、作家活動が際立っていたことに加え、彼らが一貫して高知に拠点を置き、そこで起きた前衛美術運動の立ち上がりから、その変質に至るまでを当事者として関わり、かつ対照的な道を歩んだからだ(*1)。

プロローグ
展覧会はプロローグと7章で構成。高知の市街地は、45年7月の米軍による大規模空襲、そして46年12月の昭和南海地震で大きな被害を受けた。プロローグではこうした歴史が、山六郎と中村博のふたりの地元の洋画家の作品とともに紹介される。この街が急速な復興を遂げるなか、中村と山脇信徳のふたり、そして高知新聞社によって立ち上がったのが「高知県展」だった。
塚本は高知の前衛の特徴として、つねにこの「高知県展」が活動の中心にあったことを指摘する。同展は一般に向けて広く作品を公募して審査する、いわゆる公募団体展であるが、いっぽうで行政ではなく民間企業と画家によって立ち上がったことに特徴がある。「前衛」という県展という権威と相容れないはずの芸術運動が、県展の内部で成立していたことは高知の前衛の特異な点だ。これを念頭に、以降の前衛の作家たちの活動を見ていきたい。

*1──『高知の前衛 高﨑元尚と浜口富治』(ART DIVER、2026)頁149-159塚本麻莉「高知の前衛とはなんだったのか──高﨑元尚と浜口富治の実践を手掛かりに」
第1章「高﨑元尚:1950ー60年代初頭の展開」
第1章「高﨑元尚:1950―60年代初頭の展開」は、まず高﨑に焦点を当てる。高﨑は1923年に現在の香美市に生まれた。高校卒業後は上京し、早稲田大学専門部工科建築科で学ぶが、在学中に美術に転向。42年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科に進む。しかし、学徒出陣で召集され、復員後に卒業するも、職を転々としたのち51年頃に高知に帰郷する。
帰郷後の高﨑は、彫刻よりも絵画に関心を寄せるようになる。フィンセント・ファン・ゴッホやピエト・モンドリアンからの影響を受けつつ、やがて抽象表現へと向かい、それを「高知モダンアート研究会」などを組織することで普及させようとする。会場で見られる《かかし(A)》(1958)や《朱と緑》(1959)といった作品は、当時の高﨑の抽象絵画への意識をうかがうことができる。

第2章「浜口富治:1950―60年代の初頭の展開」
第2章「浜口富治:1950―60年代の初頭の展開」では、浜口の初期の活動を辿る。浜口は1921年に現在の香美市に生まれ、幼い頃より絵を描くことを好んでいたが、42年以降は陸軍で軍隊生活を送る。復員後に前述の県展創始者のひとりである山脇に師事して絵画制作を本格化。具象画から抽象画へと作風を変化させていった。
浜口の評価を決定づけたのが、実際の刃物を使用した絵画だ。浜口は第12回読売アンデパンダン展(1960)で刃物のシリーズを出展、評論家たちからも「反絵画」の実践として肯定的な評を受ける。会場で展示されている作品はサビが出てしまっているが、発表当初、キャンバスから突き出た刃物は輝いていたといい、第14回読売アンデパンダン展(1961)では同シリーズが危険であることを理由に出品を拒否されたこともうなづける。








































