戦後日本の陶芸界において中心的な役割を果たした前衛陶芸家集団・走泥社。その活動を紹介する「走泥社再考 前衛陶芸が生まれた時代」が東京・虎ノ門の菊池寛実記念 智美術館で開催されている。会期は前期が6月23日まで、後期が7月5日〜9月1日。担当は同館主任学芸員の島崎慶子。
本展は京都国立近代美術館、岐阜県美術館、岡山県立美術館と巡回してきた展覧会。満を持しての東京展の舞台となったのは、現代陶芸を専門とした菊池寛実記念 智美術館だ。現代の陶芸作品を展示するためにデザインされた個性的な空間を特徴とする本館での開催について、島崎は次のように語る。「展示ケース越しではなく間近にご覧いただくと、陶芸作品の持つ質感や物質感がダイレクトに迫ってくると思います。当館ならではの展示になっていますので、初めての方はもちろん、他館で鑑賞した方もぜひ足を運んでいただければ」。
まずは本展で紹介する走泥社について確認しておきたい。走泥社は1948年、八木一夫、叶哲夫、山田光、松井美介、鈴木治の5人によって結成され、同人の入れ替わりを経ながら50年間にわたり活動し、日本の陶芸界を牽引した団体だ。長年の活動を通じ、陶によるオブジェを世間に認知させたこと、そして陶芸固有の表現世界を切り開いたことが評価されている。本展はこの走泥社の作家の作品を展示するとともに、同時代の美術との影響関係や四耕会をはじめとした他の前衛芸活動や海外の制作も紹介し、その比較もまじえ、前衛陶芸が生まれた時代を俯瞰できる構成になっている。
展覧会は3章構成。菊池寛実記念 智美術館では1章と2章を前期、3章を後期として会期中に展示替えを実施。本展は走泥社の50年におよぶ活動のうち、特に日本の陶芸史において意味の大きい前半の25年に焦点を当て、その間に同人であった42名のうち、作品が残る32名を紹介する。可能な限りの同人たちを紹介することで、その活動の全体を見渡し、改めてその実態を見直すことができる展覧会となっている。
第1章「前衛陶芸の始まり 走泥社結成とその周辺(1954年まで)」は、1948年に結成された走泥社とその前身といえる青年作陶家集団、そして1947年に同じく京都で結成された四耕会の作品を紹介している。
この時期の作品を見ていて気づくのは、器の形をした作品が多いことだ。陶芸が前衛化していく過程に前衛華道との関係性があるが、展示作品からは、用途を否定して器ではない形を求めたのではなく、器形態から発して新しい時代の陶芸を模索した走泥社の姿が窺える。「走泥社」という名前も、中国の均窯の釉にみられる「蚯蚓走泥文(きゅういんそうでいもん)」という、蚯蚓(ミミズ)が泥を這った跡のような曲がりくねった線状の模様に由来する。走泥社の同人たちは、中国や朝鮮半島の陶磁器にもとづく様式や技術を基盤に、新たな陶芸制作を求めたのである。
その新しい制作を模索する方法の一つに絵画的な文様表現があげられる。既成の陶芸にはない絵画的な表現には、パブロ・ピカソの陶器やマックス・エルンスト、ジョアン・ミロなど同時代の美術から影響を受けたことが想像される。また、踊る人々のシルエットが抽象的な文様として描かれた鈴木治の《ロンド》は、器をキャンバスに見立てたようである。
いっぽう、造形においても、いわゆる「器」を越えた試行錯誤を見ることができる。例えばひとつの器にはひとつの口が通常であるところ、それを複数にした作品があったり、または、山田光の《切った壺》のようにロクロで成形した壺の一部を切り取って、再構成する作品もある。陶磁器が持つ造形上の要素を現代の造形に昇華させようとする姿勢を感じる。
初期の走泥社の作品のなかでも、もっとも著名といえるのが八木一夫《ザムザ氏の散歩》(1954)だろう。フランツ・カフカ『変身』からその名が取られた本作は、器とはかけ離れた造形だ。島崎は本作についてこう語る。「八木自身の変身を表現したとされる作品です。この作品はロクロで作られていますが、産業において主に器をつくる技術として重用されるロクロで実用性のない形を作る。それによって伝統を解体したところに本作の評価があります。技術の再定義が既成の陶芸にはない造形を生み出しました」。
「前衛陶芸の象徴として語られる《ザムザ氏の散歩》ですが、現在、日本で最初の陶のオブジェといわれるのは四耕会に所属した林康夫の《雲》です。1948年の作品で《ザムザ氏の散歩》の6年前に制作されました。当時、陶のオブジェとは内面のイメージを陶で表象するものと考えられていましたが、その意味ではザムザ氏以前にも《雲》をはじめ、そのような制作が行われていたことはこの1章の作品を通してご覧いただけると思います」。
第2章「オブジェ陶の誕生とその展開(1955-63)」 は、前衛陶芸家たちが作者の内面性を表現する陶芸の在り方に創作の可能性を見出し、こうした制作方法が根づいていった時期の作品を紹介する。
この時期は走泥社以外で活動していた有力な陶芸家たちが同人として合流し、それぞれの陶芸観にもとづく制作によって多様性ある前衛陶芸家集団として走泥社の骨格が定まっていった。若い作家が数多く参加し、作品も多様化が進む。
例えば山田光《二つの塔》(1959)は伸びる影のような、または猫のようなかわいらしい造形にも見えるが、表面には無数のひっかき傷のような細かな線がつけられており、土の表情や質感を自力で作っていることがわかる。釉薬の流れや焼きの表情など、窯の中で偶然性を伴って生まれる変化を見所にするのではなく、造形と土の表情を自身でコントロールしようとする作家の意識が垣間見える。
鈴木治の《数の土面》は数字が文様化された面に亀裂が走る。数字をランダムに配することで数がもつ文化的な意味を失わせ、数字の造形的な面白さのみがあらわされた造形には荒々しさがある。土偶や埴輪のような古代の造形物が持つ土の原初的な表現力を自作の中に取り込むことを模索したこの時期の鈴木の代表作だ。
窯内で不完全燃焼を起こして炭素を吸着させる黒陶はこの時期八木一夫が始めた手法のひとつだ。《黒陶作品》(1957)は丸みを帯びた複数の造形が積み重なったように成形されている。釉薬がかからないためその輪郭がはっきりと表れ、石のようにも見える独特な質感と黒色によって造形に存在感が増す。
器形態を立体造形として成立させようとした初期から、陶芸を通した表現へと展開した制作は結果的に器の形をとらなくなり、次第にサイズも大型化していく。いっぽうで島崎は次のようにも指摘する。「走泥社は、こうしたオブジェ陶の発表と同時に1950年代半ばには器の展覧会も開催しています。当時新しい概念であった『クラフト』への視線がオブジェとともに存在したのです」。
本展の最後は、八木や鈴木、山田などの次の世代の作家の作品で締めくくり、後期展示の第3章「『現代国際陶芸展』以降の走泥社(1964-73)」へとつなぐような展示が行われている。1964年に東京国立近代美術館を皮切りに全国巡回した「現代国際陶芸展」は、日本で初めて世界各国の陶芸が一堂に集められた展覧会であり、「日本陶芸の敗北」と評されるほどの衝撃を陶芸界に与えた。
後期展示ではこのような世界の陶芸表現に触れたあとの走泥社の制作を紹介する。「現代国際陶芸展」に出品された海外の作品も展示され、その比較とともに日本の陶芸を考える機会にもなる。器形態の展開からは想像もつかない威容と独立性を感じさせる寺尾恍示、川上力三、辻勘之の3名による作品を前期の最後に見ることで、来たる第3章への期待が膨らんでくる。
代表作の紹介をするだけでなく、前後日本の陶芸運動を大きな文脈のなかで捉えようとする意欲的な展覧会。ぜひ、現代の陶芸を専門にする菊池寛実記念 智美術館で作品とじっくり対峙し、時代の精神を感じてみてほしい。
※展示風景写真は4月20日から6月23日までの展示室を撮影したものです。