第3章「高知の前衛:1950―60年代」
第3章「高知の前衛:1950―60年代」は、高﨑と浜口、そのほかの作家たちたがいかに高知の前衛をかたちづくっていったのかを、具体的な作品を見ながら辿っていく章だ。
高﨑と浜口は1962年に「前衛土佐派」を立ち上げる。これは、高﨑が組織した「高知モダンアート研究会」と、浜口を中心に60年に立ち上がった「新象会高知グループ」が合流するかたちで成立したものだ。先にも述べたように、この「前衛土佐派」は公募団体展や県展へのアンチテーゼとしてではなく、あくまでその内部で活動する集団とみなされていた。
また、高﨑と浜口、そして「新象会高知グループ」の一部メンバーによって立ち上げられた運動「0グループ」も「前衛土佐派」の前身に位置づけられる。「0グループ」は1961年に「0」と書かれた新聞紙を貼ったボール紙からメンバー7名が顔を出し、高知の中心街でパフォーマンスを行った。会場ではその記録写真を見ることができる。イデオロギーや政治性を主張するわけではなく、自分たちの足跡を残してやろうという、若い前衛作家たちのその確信に満ちた表情は、のちに結成される「前衛土佐派」の性格を端的に表しているようだ。
高知県展では、こうした前衛の勢いと足並みをそろえるように、抽象画がリードする状況が生まれていく。保守的な県展を外部から前衛が打ち崩そうとするのではなく、県展のなかで新旧の対立が生まれていたことは非常に興味深い事実だ。


また、前衛の作家たちは高知の街中にも様々な文化的コミュニティを発生させていく。喫茶店文化が根強く、また美術館や画廊の数が限られている高知という土地で、前衛の作家たちは喫茶店を作品発表の場として見出した。こうした喫茶店は地元の文化人が集う場でもあり、とくに50年代の高知では前衛詩が盛り上がったこともあり、美術と詩のジャンル横断的な交流が発生していた。坂本稔や岡崎功といった詩人が刊行した『MES』などの詩の同人誌に、前衛の美術家たちによる展覧会評や作品画像が掲載されていたことも、本展では丁寧に紹介されている。

第4章「行為と挑戦:浜口富治の実践」
第4章「行為と挑戦:浜口富治の実践」では、60年代の浜口の活動を紹介する。自然環境を作品の制作や発表の場としてとらえる「ランドアート」は、60年代後半からアメリカで盛んになったことが知られているが、浜口はそれよりも早い時期に、足摺岬の岩礁を赤く着彩する「赤い岩礁」運動を構想していた。
さらに、架空の美術館のこけら落とし展の案内を各所に送る《絵のない(意識の)画題》(1961)や、第15回読売アンデパンダン展(1963)初日に、東京都美術館の食堂までトランクに入れて運んだ電気で動くオブジェによる「動くオブジェ巡回移動展」などを実施。これらの表現は、批評家・詩人の瀧口修造や、美術家・松澤宥との交流のなかで、より深化していくことになる。



第5章「偶然と制御:高﨑元尚の実践」
第5章「偶然と制御:高﨑元尚の実践」は、高﨑の60年代の活動を追う。61年より、高﨑はジャズに着想を得たという「アクション」シリーズを制作し始めたものの長続きせず、やがて複数の色彩を碁盤の目状に塗り分ける連作を制作。高﨑はこの表現を自分のものにするのことにも苦労し、彩色したキャンバス片を並べながら配置を試みているうちに、キャンバスが湿度によって反り返ることに気がつく。この反ったキャンバス片を敷き詰めることで生まれたのが、高﨑の代表作となる「装置」シリーズだ。
遠景として見ると不思議な像が浮かび上がり、いっぽうで近づいてみるとキャンバス片それぞれの反りに個性が見出だせる本作は、美術館に収蔵されるだけでなく、レストランなどにも展示されていた、高知の市民には馴染み深いシリーズだ。さらに67年、高﨑は関西を拠点とする「具体美術協会」に加入。具体のメンバーとの交流を深めていった。





















