第1章「生体と物質の錬金術」
展覧会は全4章で構成されている。第1章「生体と物質の錬金術」は、中西が本格的に絵画に取り組むまでの前史的な内容となっている。中西は東京藝術大学で小磯良平の教室に所属していたものの、授業にはほとんど行っていなかったようだ。学生時代の中西は労働運動へのコミットをしつつ、古典的なデッサンや心象風景のドローイングなど、自らの表現すべきものを模索していた。
学生時代の作品《天の岩戸》(1955)は、『古事記』に題材を得た作品だが、絡み合う立体的な人体と強烈な光陰の表現からは、中西のもつ描画技術の高さをうかがい知ることができる。また、59年からの「韻」シリーズのT字の連続は、その後の中西の絵画に頻出する同一の形態の連続性との関連を見いだせるだろう。


本章では、高松、赤瀬川とのハイレッド・センターでの活動も、前後史を含めて取り上げられている。結成前、中西が高松らと実行した「山手線のフェスティバル」(1962)は、顔に白いドーランを塗って山手線に乗車し、卵型の《コンパクト・オブジェ》を手にパフォーマンスをする試みだ。このときに使用された樹脂にハサミ、洗濯バサミ、歯車といったものを封入したこのオブジェの実物を、会場で見ることができる。
その後の63年の読売アンデパンダン展で、中西は《洗濯バサミは撹拌行動を主張する》(1963)を発表。日用的な工業製品である金属製の洗濯バサミをキャンバスに大量に食いつかせた本作は、反芸術的な性格が強いが、同一の記号を繰り返すというその後の中西の創作に共通する表現を見出すことができる。


読売アンデパンダン展後の1963年に結成されたハイレッド・センターの活動は広く知られていることだろう。会期初日に画廊を閉鎖、最終日に開廊する「大パノラマ展」(1964、内科画廊)や、東京オリンピック開催に合わせて白衣にマスクで東京の歩道を徹底的に掃除する「首都圏清掃整理促進運動」(1964、東京都内各所)などの資料を会場で見ることができる。
この時期、中西は舞踏家の土方巽との交流も深めていき、協業のなかで、中西は本格的に絵画への回帰を志向し始める。この時期の中西の活動についても、福元はその「不安定」性を指摘する。舞踏においてしばしば発生する、不安定な足の接地、身体の重心の揺らぎなどに対する興味が、中西の絵画にも影響を与えていったという。




















