WORLD REPORT「ニューヨーク」:折り合えないことを前提にした「関係」の構築──ホイットニー・ビエンナーレ2026

雑誌『美術手帖』の「WORLD REPORT」では、世界の各都市のアートシーンや話題の展覧会をリポート。2026年7月号の「ニューヨーク」では、ホイットニー美術館で開催された「ホイットニー・ビエンナーレ2026」について國上直子が考察する。

文=國上直子

「ホイットニー・ビエンナーレ2026」(ホイットニー美術館、ニューヨーク)の展示風景より。壁面左から、エミリー・ルイーズ・ゴシオー《月とともに、互いを形づくりながら》(2025、以下同)、《天に手を伸ばして》、 《三者の関係》、 《ロンドン、ベッドの足元に》、 《森の一部になっていく》、 《森の一部になっていく 2》、《手と肉球の結婚》、《夢の中でまた会える》、手前の立体が《コング・プレイ》 撮影=筆者

折り合えないことを前提にした「関係」の構築──ホイットニー・ビエンナーレ2026

 ホイットニー美術館で、第82回目となるアメリカ美術展「ホイットニー・ビエンナーレ2026」が開催されている。今回は、同館のキュレーター、マルセラ・ゲレロとドリュー・ソーヤーが共同企画し、56組のアーティスト、デュオ、コレクティブが参加している。参加者は20代から90代と多世代にわたり、アメリカ国内だけでなく、アメリカと地理的・歴史的関わりをもつ地域のアーティストも含まれている。

 全体としては、特定のテーマや問題を掘り下げるのではなく、「関係性」というキーワードから派生する様々な事象や問いにふれるという構成になっている。国際的・社会的・人種的関係を捉えようとする作品もあれば、親族や日常風景のなかにある関係性を見出そうとするものもある。こうした複数の視座や温度感が混ざり合うなか、会場には、ある種の静けさが漂う。スケールの異なる関係が並列されることで、特定の問題が前景化することなく、見る側にゆとりが生まれる。緊迫したアメリカの現在を捉えようという気負いが見えていた過去数回のビエンナーレを思い返すと、この変化は際立っている。

人間と場所の「関係」を考える

 デイヴィッド・L・ジョンソン(1993〜)は、都市空間に存在するオブジェクトに介入することで、公共空間がいかに管理され、人々にどのような影響を与えているのかを可視化する。《ルール》(2024〜)は、公開空地(民間運営の公共スペース)に掲示される行動規範のパネルを取り外すプロジェクトだ。行動規範に共通して見られるのは、寝転ぶこと、テントを設置することなどの禁止だ。これは11年に起こった「ウォール街を占拠せよ」を受けて、管理者側の「学び」が反映された結果だという。さらに「ほかの人の迷惑になる行為」の禁止など、取り締まる側に都合の良い解釈が可能な項目も見られる。人々を排除する際は、行動規範の掲示が前提条件となるが、ジョンソンはその逆を突き、ビルの管理者が気づかないうちにパネルを取り除くことによって、公開空地を本来の意味での公共の場へと開放し、人々と場所との関係の再定義を試みる。

デイヴィッド・L・ジョンソン《ルール》(2024-)の展示風景 撮影=筆者
アジズ・ハザラ《月を眺めること》(部分、2024) 紙にアーカイバル・ピグメント・プリント 690×595cm ©Aziz Hazara Courtesy of the artist and Experimenter Kolkata/Bombay Photo by Aziz Hazara

 本展は、人々のつながりや、組織形成の土台となるものとして、「インフラ」がひとつの重要なキーワードとなっている。そのなかで、アジズ・ハザラ(1992〜)は、「軍事インフラの残滓」をテーマにしている。アフガニスタンで育った彼にとって、米軍などが置き去りにした残留物は、日常風景の一部であった。《月を眺めること》(2024)では、データが残っていた米軍の暗視ゴーグルから抽出された風景の画像が、NATOの非常用サーマルブランケットにプリントされている。アフガニスタンでは、かつて屋上に集まり過ごす慣習があったが、外国軍の占領により空からの監視が張り巡らされて以降、人々は屋内へと引きこもるようになったという。占領後、監視網が消滅すると、収集データは文脈を失い、いつ、だれが、何を撮影したかわからない、匿名のイメージに転化した。放棄された軍用機材は、データが入ったまま拾われ、いまでも周辺地域の市場で流通している。監視するもの・されるものという拘束性の高い関係が、占領する側の関心が移った途端、いともたやすく解体されることを示唆する作品だ。

見えないものとのつながり、植民地的眼差しの解体

 池添彰(1979〜)は、循環するシステムを主題にした絵画を手がける。《原子力発電所をめぐるカエルの物語》(2025)では、擬人化されたカエルたちが営むエネルギーのサイクルが描かれている。地面から生え出た原子力発電所が家屋に電気を送り、サンタからの贈り物の空き箱はプランターへ、そこで育ったひまわりはハムスターの餌に、ハムスターはやがて、カエルたちが発した言葉から生まれた貝殻を粉砕する機械を回す。そしてその粉は、山となっていく。鳥獣戯画や絵巻物を想起させる画面に見入っていると、既知と未知のサイクルが淡々と地続きに並ぶのが、ごく自然に感じられる。ところが実世界において、このようなスケールで、見えるものと見えないもののつながりに思いを巡らせようとすると、それがいかに「しんどく」なっているのかを気づかせる作品となっている。

池添彰《原子力発電所をめぐるカエルの物語》(2025)キャンバスに油彩 147.3×243.8 cm 撮影=筆者
左の壁面にあるのが、池添彰《ソーラーパネルをめぐるロボットの物語》(2025)、右奥が《メタンガスをめぐるモグラの物語》(2025)、中央がアッシュ・アーダー《ブロードキャスト ♯4》(2024)Photo by Jason Lowrie/BFA.com. ©BFA 2026

 キモワン・メチェワイス(1963〜2011)は、カナダ・サスカチュワン州で生まれた、先住民族クリーの作家だ。写真、ドローイング、テキストなどの素材を重ねた作品にあわせ、ショーケースには彼のポラロイド写真が並んでいた。そこに写るのは、作家自身の姿、身の回りの風景や物品、ハンドサインといった、何気ないイメージだ。しかしそれらが総体となり、彼の自画像を浮かび上がらせる。1990年代以降、ステレオタイプに真っ向から対峙しようとする先住民作家たちが多く現れるなか、メチェワイスが取ったアプローチは、静かで、内省的だった。20世紀初頭、理想化された先住民の姿を写真に収め、ステレオタイプの確立に貢献したエドワード・カーティスに対する応答として、彼は自らの写真を「ポスト・カーティス・ポートレイト」と呼んだ。ステレオタイプに直接言及することなく、自律的に一個人としてのイメージを組み立てることで、先住民たちに向けられていた人類学的・植民地主義的眼差しを丁寧に、そして確実に解体しようとしたように見える。

キモワン・メチェワイス《無題》(1998)「セルフポートレート」シリーズより 染料拡散転写プリント(ポラロイド)、粘着テープ 12.7×8.9cm ©National Museum of the American Indian. Courtesy the National Museum of the American Indian Photo Services

身体と動物と場所と

 エミリー・ルイーズ・ゴシオー(1989〜)は、幼い頃から聴力が弱かったため、視覚に頼る生活をしてきた。21歳のときに、不慮の事故により失明に至ってからも、内面に立ち現れるビジョンは鮮明で、それを制作に生かす。作品のモチーフは、盲導犬として生活をともにした「ロンドン」。ロンドンは、ただの盲導犬というよりも、娘、伴侶、母のような存在で、障害者として生きることの考え方を大きく変えてくれたという。会場に並ぶのは、ロンドンが体調を崩して以降に制作された作品。ロンドンと作家のつながりを描いたドローイング群は、ボールペンの線の溝をガイドに、クレヨンの油分を触って確かめながら色を配置していく手法でつくられている。《コング・プレイ》(2025)は、ロンドンが好きだったおもちゃをセラミックで複製した作品。その数は100点に及ぶ。カラフルなだるま状のオブジェクトが膨大に並ぶ様は、人と動物という関係を超越した、ロンドンとの特別な絆に対するゴシオーの敬意の深さを反映しているようだった。

プレシャス・オコヨモン《すべてがあなたを殺そうとしており、あなたは恐れるべきだ》(2026)の展示風景 Photo by Ron Amstutz

 「分断」を憂うナラティブにかわり、今回の展示は、折り合えないことを前提とした関係の在り方を提示した。そこで立ち上がってくるのは、意外にもカオスではなく、休息に似た静けさだった。このアプローチのシフトは、同館、ひいてはアメリカ美術界における変化の萌芽なのかもしれない。

『美術手帖』2026年7月号、「WORLD REPORT」より)