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「福島アートアニュアル2026 世界 ⇆ わたし 庄司朝美/髙木優希」(福島県立美術館)会場レポート。異なる絵画実践が照らし出す世界との距離【2/2ページ】

庄司朝美──描くことで立ち現れる世界

 続いて庄司の作品が展示されている部屋では、通路のような細長い空間に、キャンバス作品が点々と配置されている。庄司の「絵を描くことを通して世界の複雑さを飲み込む」という実践は、アクリル板の絵具を拭き取る行為を繰り返すものから、3年ほど前よりキャンバスを用いるものへと転換していった。

キャンバスに描かれた作品、庄司麻美《25.6.14》(2025)
キャンバスに描かれた作品、庄司麻美《25.11.1》(2025)

 これらの作品群はアクリル板に油彩で描かれた大胆な筆致の作品群とは異なり、薄く重ねられたレイヤーやより鮮やかな発色によって、描かれる世界の密度を増幅させているような印象を受ける。また、従来のモチーフに加えて動物や家、花なども描かれており、「世界の複雑さ」に対する見地の変化を感じさせる。

庄司の展示室の風景 手前の大型作品が庄司麻美《百目の鳥》(2021)
ガラスケースの表面に庄司が直接描いた作品がケース内の作品群とともに並ぶ

 アクリル板を用いた初期作品の次は、大型作品や衝立状の支持体、ガラスケースの壁面に直接描かれたドローイングが展示されている。

庄司の展示室の風景 手前の大型作品が庄司麻美《百目の鳥》(2021)

 アクリル作品の画面には人や手、鳥といったモチーフが繰り返し現れる。それらは固定された意味を持つ記号ではなく、筆致のなかで生まれ、溶け合い、別のイメージへと変化していく過程が表現されているように感じられる。透けるように描かれた人は皆遠くを見据え、長い腕がどこかへ伸ばされていたり、指を何かに這わせたりしている。庄司が「絵画は対立する価値や意味であっても、それらが等しく存在することが許される独特な言語である」とステートメントで述べていたように、そこで表現される世界は多義的であり、あらゆる意味を孕んでいる。

左が《17.6.27》(2017)、右が《17.6.11》(2017)、中央が本展に際しガラスケースに水彩で描画された《26.5.27》(2026)

 あるときは朗らかに、あるときは恐ろしく、そしてあるときは幽玄にも感じられる多義的な画面によって、鑑賞者と作品のあいだに言葉を介さないかたちでの対話を生み出している。また大胆な拭き取りのストロークによって透明となった板の空白や絵具の掠れが、余白やリズムを与えているようでもある。作品を介して伝達される、庄司が自身の身体を通して見た世界の断片は、観客との対話を経てより奥行きが増しているように感じられる。

世界との距離を問い直す絵画

 高木は現実の空間を写真や模型へと置き換え、その距離を往復しながら世界を見つめている。いっぽうの庄司は身体を介して画面に直接向き合い、描く行為そのものから世界を立ち上げようとする。これだけを見ると、高木と庄司の制作方法は対極にあるように感じられる。

 しかし、手法は異なっても、両者が絵画を「世界の再現する方法」ではなく「世界を認識する方法」と捉えていることは共通している。高木は世界との距離を慎重に測り、庄司は世界へ身体ごと飛び込む。異なるベクトルにありながらも、世界の姿を捉えようとする2人の作品が1つの展示のなかで交差することで、「世界⇆わたし」というタイトルはたんなるタイトルではなく、鑑賞体験そのものとして立ち現れる。2人の作品を往還することで 、鑑賞者自身もまた「世界」と「わたし」の距離を改めて問い直すことになるだろう。