長い間座っていたせいで、お腹に石を抱えているみたいだった。頭を天井にぶつけないようにギクシャクと体を動かして、ようやくトビリシに降り立った。飛行機の窓から見えたジョージアの大地は、埃っぽくて茶色がかっていて、なんというか色彩がなかった。明らかに日本とは違う光景が目の前にあるにもかかわらず、ボワボワとして異国に来たという感触がない。1年分の荷物を引き摺って空港のドアを抜けると、ようやく外の空気に触れた。19時間着けていた分厚いマスクを外すと排気ガスが苦くて、それに何処かで肉を焼いているような匂いが鼻を刺した。それでようやく、ああ、外国だ。と、しみじみ嬉しくなる。初めての街の埃っぽい空気を吸って吐いてと繰り返していくうちに、身体が開いていくのを感じた。
私にとって、絵を描くことのはじまりにあるのは身体である。これまで絵を描くことを通して、どうにかこの世界の複雑さを飲み込もうとしてきた。絵画は、対立する価値や意味でもそれらが同時に存在することが許される独自の言語なのだ。筆を通してこの体を拡張し、肉体を超えたものとへと開かれていく体験が絵画なのだと思う。
そもそも私がなぜジョージアにいるのかというと、2019年に東急財団が主催する五島記念文化賞にて美術新人賞を受賞し、財団の助成による1年間の在外研修先としてジョージアを選んだからである。
ジョージアはコーカサスの南麓に位置する北海道ほどの小さな国だ。その歴史は長く複雑で、困難に満ち満ちている。アフリカ大陸外で最古の人類が発見された地でもあり、ローマ帝国、ペルシャ、モンゴル、オスマン帝国、ロシア帝国、それからソヴィエト連邦と、まったく別の文化圏の大国によって度重なる支配を受けながらも、独自の言語や文化を守り続けてきた新興国である。そこにはきっと、まだまだカオティックで人間臭くて、土に近いとでも言えばいいのだろうか、そんな空気が残っているのではと考えて、この国を研修先に選んだ。
私がトビリシに到着したのは2月28日。ロシアによるウクライナへの実質的な武力侵攻が始まってから4日後のことだった。この30年のあいだにロシアと2度の戦争を経験しているジョージアにとって、これは対岸の火事などではなく(実際に黒海を挟んだ先にウクライナがある)、まだまだ治らない傷をえぐられるような出来事である。街に出ればそこかしこでウクライナ国旗が掲げられ、八百屋の店先にあるブラウン管テレビでも、電車やバスの乗客のスマートフォンの液晶画面にも、歩道をすれ違う親子の会話も戦争、戦争、戦争。「平和ボケ」は通常悪い言葉として使われるのだけど、この言葉が示す状態は幸せそのものではないか、見渡せば世界中のあらゆる地で戦いが絶えないなか、それは望みうる最良の状態なんじゃないかと思う。
コロナ禍による延期に次ぐ延期で1年半越しに叶った研修は、このようにして始まった。トビリシに来る前の話では、すでに春めいた陽気で街路樹にも花がつき始めているとのことだった。ところが到着してしばらくすると毎日雪が降る。季節外れの大雪に加え氷点下の気温がくる日も続き、冬が戻ってきたようだった。もともと少ない色彩がさらに限られた色になる。
ここ10年近くテレビを見る習慣を持たなかったが、そんな天気が続くので夜遊びもせずに帰宅すると毎日テレビを見ていた。借家のケーブルテレビでは、ジョージアの放送局に加え、ウクライナとロシアの各局、BBCやCNN、France24など多国籍の報道番組が見られる。チャンネルを切り替えるたびに様々な国の言語が飛び交っているが、「ウクライナ」という単語だけは聞き取ることができる。Ukraine24では、番組の合間にノリのいいBGMとともに兵士たちや戦闘機、実際の戦闘映像がテンポよく編集された、まさしく国威発揚のためのプロパガンダCMが流されている。
トビリシの街は、壁があるところにはグラフィティというくらい、どこにでも文字や絵が描かれている。到着して数週間のあいだにも壁は更新され続けていて、そのなかに「Fuck Putin」の文字が目立つようになってきた。次第に「Fuck Ruzzia」の文字(Zはロシア軍の意)など、ロシア自体を嫌悪する書き込みも目立ってきている。プーチン憎しは分かる。しかし長きにわたってロシアの影響下にある歴史を考えれば、ロシアを否定することは自分たち自身の一部を否定することなんじゃないかとも思う。近年、トビリシに残るソ連時代のレリーフや建造物が次々と壊されているそうだ。重たいソビエトを早く脱ぎ捨ててしまいたいのだろうか。
ジョージアは地理的には西アジアの端に位置しているけれど、ここはアジアとは言い難い。しかしヨーロッパとも違っているし、アラブでもなくて、ジョージアだとしか言いようのない国である。だからなのか、ジョージアという英語的な響きもなんだかしっくりこない。一皮剥けば、ここにはまだソヴィエトがある。「グルジア」を脱ぎ捨てて「ジョージア」に着替えたけれども、それがまだ体の形に馴染んでいないような感じがする。
街を見渡すと、日に焼けて体の重心が下の方にあるガッチリした中年代以上の「グルジア」人がいて、ヒョロリとして体の重心が高い若者世代を見ると「ジョージア」人だなと思う。ソ連の上に新しくできた、まだ薄くて柔らかい皮膚のようなものがこの国の若者たちなのだろう。滑らかで、艶々した彼らのおでこや頬を見るとそんなふうに感じる。
この断絶は街のつくられ方にも反映されていて、中央駅にある生鮮市場の中に、突如としてお洒落でアンダーグラウンドな雰囲気のヴィンテージショップがあったりする。その界隈は日に焼けた逞しい「グルジア」の人たちが丸々一頭分の豚や牛を解体し、骨を咥えた野良犬がだらしなく寝そべっていたり、巨大な魚が店先に並べられ、スパイスの山やチーズ、山盛りの野菜が剥き出しで売られる。ああ、これが生きている匂いだなと思っていると、パーティにでも行くのだろうかと着飾った若い「ジョージア」の人たちが、ピカピカの靴でぬかるんだ道を器用に歩いている。一方、中心部から少し外れた所にある、巨大なソヴィエト式集合住宅の横にあるブティックでは、世界中のリッチな人が着るような服をつくっている。しかし店の裏は草がまばらに生える谷になっていて、古びたコンクリートが剥き出しの、建設中なのか取り壊し中なのか判断のつかない構造物が風のなかに立っている。
トビリシは、相反するものが隣り合って存在するカオティックな街である。それは刺激的で愉快ではあるが、同時にとても悲しい。ソヴィエト以前と以後では地層がずれて別の組成物が積層されているみたいなのだ。
トビリシの情景はあまりにも鮮やかなので、この1ヶ月の記憶が勢いよく吹き出してきて、どうも早口で描き出すことになってしまった。せっかくの連載企画ということなので、初回の本稿は毎日街をひたすら歩いて集めた情景を、絵を描くようにして文字でスケッチしてみることにした。回を追うごとにジョージアという国が一枚の絵として書き進められ、一つの物語として立ち上がることができたら、そこに私がこの国に来たことの意味が示されるのではないか。記事を通してその過程を共有できたら嬉しく思う。