「イラン館」はどこ?
内覧会期間中の8日午後、前回(開催予定だったが国内情勢により、少なくとも内覧期間中は開いていなかった)同様、今年も開かないはずの「イラン・パビリオン」のロゴが入ったニュースレターが届いた。前日の7日にオープニングパーティーが開かれ、「Hulul: On Incarnation and Incantation」と題された展示概要やキュレーター2人の名前、会期、住所等が記されていた。併記されていたウェブサイトやインスタグラムを確認すると、会場と思しきヴェネチアにしては無機質な建物の外観と、DJセットや国旗をあしらったケーキなどが映るやや拍子抜けするパーティーのイメージが掲載されていた。
会場は前回と同じ住所に設定されていたため訪れたが、該当する建物や展示は見当たらなかった。関係者に確認すると「公式」のイラン館は開幕時点で不在とされ、「Hulul」展の情報は共有されていなかった。送り主である、フィンランドを拠点とする芸術系非営利団体「Perpetuum Mobilε」に問い合わせたところ、「Hyperstitional Pavilion of Iran」と呼ばれる非公式プロジェクトであり、提示された空間や出来事は現実を模した虚構であることが明らかになった(*5)。さらに、キュレーターの名前を検索すると、それが現体制によって1月に殺害された若者のものであることに気づく……。
同プロジェクトには、実際に活動するイラン人のキュレーターやアーティストが、体制からの報復を恐れ匿名で関与しているそうだ。こうした虚構と誤読は、国家が法や制度の形式を通じて政治的正当性を演出する際の手法でもある。一過性の仕掛けではなく、議論や対話の場として2022年から継続されている代替的な公共圏である「テヘラン・サミット」とも接続されている(*6)。ここで「イラン館」の不在と存在のあいだで引き裂かれた状態は、制度が前提としてきた可視性を揺るがし、体制にとらわれない思考の回路を形成している。

いったんの結びとして
国別パビリオンは、それを有する国家あるいはそれに準ずる運営組織によって開かれたり閉じられたりし、代表作家の意思が反映されることがあっても、その内外からの圧力によって揺らぐ場面も少なくない。あるいは、体制について語らずに作家の人権を前面に掲げる例も見られた。
「家」もまた閉じたシステムとして暴力を内包するが、その外部では身体性や記憶、痕跡としての実践が別様に立ち現れる。同時に、その枠組みそのものが、いまや生存に関わる可視性と不可視性のあいだで揺らぎ、輪郭を失いつつある。
では、「館」はどこにあるのか。それは特定の建築や場所を指すものではなく、可視性の条件のなかで一時的に成立する場にほかならない。展覧会に集う者たちもまた、デュシャンが「A Guest+A Host=A Ghost」と記したように、固定された実体をもたず、関係のなかに現れては消える。分裂した「イラン館」がそうであるように、それは特定の場所に定位されることなく、自由を希求する行為のなかでのみ断片的に立ち上がるのかもしれない。
*5──今回のヴェネチア・ビエンナーレで、異なる表明の場として多々活用されている「e-flux」に5月7日付で掲載している。https://www.e-flux.com/announcements/6787418/the-hyperstitional-pavilion-of-iran-hulul-on-incarnation-and-incantation
*6──国家的・制度的枠組みによって可視化されないイランの表現や議論を、分散的・越境的な形で持続させるための言説的プラットフォームとして、アート実践とキュラトリアルな活動を横断するErfan GhiasiとGhazelが立ち上げた。https://thetehransummit.com/about-us/



















