「家」に潜む暴力性(オーストリア、ドイツ、日本)
オーストリア館
フロレンティナ・ホルツィンガーによる《SEAWORLD VENICE》(2026)が発表されている。水という要素をめぐる長年のリサーチを背景に、環境崩壊とテクノロジーの交錯する状況のなかで、生身の体が装置として組み込まれるライブ・インスタレーションである。供犠的な構造がその暴力性をあらわにし、作家本人を含むパフォーマーたちが拘束され演じる空間では、鑑賞者の尿を含む水が循環し、限界を試される体は水槽の内部で寝食する。閉じたシステムとしての「家」のなかで、生態系は消費される存在としても鑑賞者の目の前に差し出されている。
ドイツ館
ヘンリケ・ナウマンとソン・ティエウによる2人展だが、ナウマンは今年2月に急逝し、遺族やキュレーターらが作品を完成させた。「Ruin」と題された本展は、ドイツ再統一以降のイデオロギー的断絶とその物質的痕跡をめぐる考察である。ナウマンが館内で東独の生活空間の内部を再構成するいっぽう、ティエウはその内外で移民の経験と暴力の歴史を呼び戻す。とりわけ館外に設置したモザイクによる「ひまわりの家」(1992年、ドイツ東部ロストック=リヒテンハーゲンで起きた外国人排斥暴動の現場となった集合住宅)への言及は、「家」という空間が排除と暴力の場となったことを示唆する。ファシズム期の建築への上書きは、それが過去の遺構ではなく持続する現在としての歴史を立ち上げている。

日本館
荒川ナッシュ医による展示。同性婚をおこない、代理懐胎によって子供をもうけた作家自身が、現在進行形で築く「家庭」が作品として提示される。これら制度を認可する国や自治体は世界でも限られ、その実践には日本国籍を離れる選択も含まれていた。親として、また日本代表としても、戦争についての教育やケアの労働的側面を、次の世代へ引き継ぐ責任のもとに記録が行われている。過剰な情報量に加え、複数のゲストアーティストとの共作を各所に配置し、隣人たちとも接しながら、切実な歩み寄りは広がる。
鑑賞者は、208体の赤ちゃん人形のうち、貸出用の一体を抱えて館内を巡ることができるが、個体は選べず、それを引き受けるかどうかも任意だ。この展示は、アジアを拠点とする2人の日本人キュレーター(高橋瑞木、堀川理沙)に加え、荒川の実母や多数の協働者との関係のなかで支えられ、会期中も複数のプロジェクトが進行している。同時に、その実践は、他者に負担を負わせたり傷つけたりする可能性も孕む。「家庭」は与えられるものではなく、そうした選択と代償のなかで成立するのだ。
パビリオンの外で
Elegy展
南アフリカ館は作品内容への政治的介入によって不参加となり、ガブリエル・ゴリアスはパビリオンの外に押し出された(*4)が、ヴェネチア市内の教会と街頭にたどり着いた。「エレジー」と題されたプロジェクトは、帝国主義や植民地主義、家父長制の暴力の歴史に呼応し、10年以上にわたり各地で上演されてきた。会場のサン・アントニン教会には8つのモノリス状の映像装置が配置され、そこに3つのパフォーマンスが映し出される。息と歌を分かち合う儀礼的な哀悼として、複数の人物による発声と呼吸が連続し、空間を満たす。
リーディング用に配布された冊子には、ガザで殺害された詩人ヘバ・アブナダによる「I grant you refuge(私はあなたに避難所を与える)」などが収められており、暴力のただ中でも他者に避難所を差し出そうとする言葉が、参加した者の声で街路に響いていた。
Co-travellers展
ピノー・コレクションによるパラッツォ・グラッシでは、インド出身の映像作家アマル・カンワルの個展が開催されている。展示は、《The Torn First Pages》(2004–08)と《The Peacock’s Graveyard》(2023)の2作品から構成され、いずれも複数のスクリーンに分散された映像とテクストによって展開される。前者は、ミャンマーの民主化運動と軍事政権下の検閲の事実に基づき、書物の最初の頁が破り取られるという行為から、記録の欠落と抵抗の痕跡をめぐる物語を編み上げる。アーカイブや証言に根ざしながら、映像は直接的な記録ではなく、寓話や断片として現れては消えていく。

カンワルにとってそれらの物語は、嘆きや哀悼にとどまるものではなく、持ち運ばれ共有されることで、政治や連帯のあり方を問い直す思考の装置でもある。《The Peacock’s Graveyard》では、孔雀が死者の場を見守る存在として現れ、テキストとそれに伴奏される音響の重なりのなかで、登場人物の生と死が実在の場所や歴史とも接続する。
Canicula展
「In Between Art Film」財団による本展では、8人の作家による新作ビデオインスタレーションが、旧施療院と教会からなる複合施設に展開されている。「Canicula」はラテン語で「ドッグ・デイズ」、すなわち極度の熱と光に晒される時期を意味し、知覚の混乱や情報の過剰、政治的圧力といった現代の条件を背景にしている。
マヤ・ワタナベの《Jarkov》(2026)は、ペルー出身でその内戦期に育った背景のもと、集団墓地や生と死のあいだに置かれた身体を扱ってきた制作の延長にある。凍結されたマンモスへの極端な接写によって対象は抽象化され、死の痕跡や物質に残された「不在」が示される。時間のスケールもまた歴史を越えて地質学的な深層へと開かれていく。

*4──ガザにおける死者を扱った作品が「分断的」として文化相により中止され(検閲との批判あり)、その政治的介入の帰結として南アフリカ館は参加を取りやめた。https://www.dailymaverick.co.za/article/2026-01-09-gayton-mckenzie-pulls-the-plug-on-sas-veas-venice-biennale-submission-because-it/



















