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「路上、お邪魔ですか?」(金沢21世紀美術館)開幕レポート。路上を美術館で語ること、だからこそ持ち帰ることができるもの

金沢21世紀美術館で、現代における公共性がもつ課題と可能性を考える特別展「路上、お邪魔ですか?」が開催されている。会期は4月25日~9月6日。会場の様子をレポートする。

文・撮影=安原真広(編集部)

中村裕太《電柱から見た生き物の世界》(2026)と鯨津朝子《Obstacles?》(2026)が共存する、金沢21世紀美術館の中庭「光庭」での展示風景

 石川県金沢市の金沢21世紀美術館で、「路上」をキーワードに作品や歴史的な出来事や言説を紹介し、現代における公共性がもつ課題と可能性を考える特別展「路上、お邪魔ですか?」が開催されている。会期は4月25日~9月6日。担当は同館キュレーターで建築史家の本橋仁。

 本展は、1986年に赤瀬川原平や藤森照信らによって結成された「路上観察学会」の創設40周年を契機とするものだ。メディアを通して都市と自然が意図せず生み出した状況を共有した同会の活動を紹介するとともに、2020年に渋谷で起きた路上生活者殺害事件などの事例が象徴するような、他者の主観的ルールが衝突する空間としての側面にも注目する。

 企画について、本橋は次のように語っている。「本展の準備中、SNS等で展覧会名である『路上、お邪魔ですか?』と検索すると、展覧会とは無関係の目を覆いたくなるような排斥的で差別的な投稿を目にすることが多く、現代における『路上』のあり方について改めて考える必要があると感じた。本展がそれを考えるきっかけを提供する場になればと思っている」(記者内覧会での発言より)。

遊び場としての路上、抑圧と解放

 展覧会は7つのセクションで構成されている。最初のセクション「遊びとハック」では鈴木康広、ギリヤーク尼ヶ崎、そしてセガのゲームである『ジェットセットラジオ』(2000)を紹介。

鈴木康広《遊具の透視性》(2001)。回すことで映像が現れるが、回している当人は近すぎて映像の全体を把握することができない。他者のための行為の存在で成り立つ作品

 1979年生まれの鈴木の初期作品《遊具の透視性》(2001)は、かつて日本中の公園で見ることができた回転遊具「グローブジャングル」を用いた作品だ。夜間に遊具そのものをスクリーンにして、昼間の公園で遊んでいる子供たちの映像が投影する本作を、暗くした展示室で体験することができる。誰かが遊具を回さないとスクリーンとしては機能しないため、映像を見るためには会場にいる誰かが回す役割を担うという、場のルールの発生が不可欠だ。昼と夜の公園の表情の変化を、どこか懐かしい遊具に映し出すだけでなく、子供の頃から人間が培ってきた公共空間を分担して使用する意識の存在も可視化する。

写真家・植村佳弘によるギリヤーク尼ヶ崎のパフォーマンスをとらえた作品。左から《母に捧げる》(2020)、《円》(2009)、《舞台は路上》(2018)
ギリヤーク尼ヶ崎の映像作品《祈りの踊り》(1998)。手前はギリヤークがパフォーマンス時に立てるめくり

 1930年生まれのギリヤーク尼ヶ崎は、95歳にしてなお現役を続ける大道芸人だ。東京、京都、札幌といった様々な都市の路上で、長年にわたりパフォーマンスを続けてきた。北海道・函館出身のギリヤークは上京して創作舞踏を学ぶも、60年代頃より独自の踊りを取り入れた大道芸人としての道を歩み始める。「鬼の踊り」と称されるその身体パフォーマンスは、国外公演を果たすなど高く評価された。阪神・淡路大震災を契機に、その踊りは「祈りの踊り」へと変化。現在に至るまで被災地で鎮魂のためのパフォーマンスを行なってきた。

 本展ではギリヤークのパフォーマンスを記録した写真や映像を展示している。ギリヤークがチョークで路上に円を描くと、そこを中心に舞台ができあがり、人が集まってくるという。路上を舞台に変化させ、その場を身体と呼応させるそのパフォーマンスは、「大道芸」という伝統的な表現行為がもつ、周囲を巻き込むエネルギーの大きさを意識させるものだ。なお、6月27日には本館の芝生広場で特別公演も実施される予定だ。

『ジェットセットラジオ』(2000)の展示では、実際に来場者がコントローラーでゲームをプレイできる

 路上における表現は、暴力を含めた権力とのせめぎ合いにも晒される。セガが2000年に発売した『ジェットセットラジオ』(2000)は、「ケーサツ」と呼ばれる集団の追跡を逃れながら、街中にスプレーでグラフィティをしていくビデオゲームだ。路上における遊びを、秩序の名のもとに暴力も辞さない存在が弾圧していくその構造は、公共空間における暴力が、大衆からのみならず、権力からも発動されることを端的に示している。

編集部