結び──「いま、宇都宮で」しか得られない体験
本展の価値は、名品を並べたことではなく、見るための“視点”そのものを手渡すことにある。宗教の光と理性の光、その交差をたどることで、私たちは作品の意味を「更新」できる。いったんこの視点を身につければ、帰路に立ち寄るほかの展覧会でも、教会の壁画でも、通り過ぎてきた都市の記念碑でさえも、まるで違って見えるはずだ。鑑賞の解像度が一段上がる──それがこの企画の最大の贈り物だ。

さらに言えば、「ライシテ」をここまで正面から扱い、ドラクロワからモネ、ユトリロ、ロダン、ルオー、そして未だその名を知られていない数々の作家たちを一つの思想線で貫いてみせる試みは、国内では前例がない。過去を年代順に語り直すのではなく、国家と宗教、公共と個人、伝統と前衛という現代そのものの葛藤を、美術を媒介に可視化している。これは回顧ではなく、現在のための展覧会だ。

最後に藤原啓学芸員からのメッセージを掲載する。
今回の展覧会ではもちろんフランス美術の美しさを感じてほしいですが、それだけではもったいないと思います。美術の持つ、ある種の気味の悪さから恐ろしさまで、すべて味わい尽くしてもらいたいと、わたしはそのように考えています。自分の感性に響く作品との出会いは、複製画像やパソコンのモニター越しの出会いでも喜べるかもしれません。しかしながら、自分が愛せない作品が、実際にはいったいどのような作品なのか、どういった感性や立場の人がこれを愛するのか、なぜその作品が今日まで大事に守られてきたのかということは、実際の作品に対峙しなければ感じ取れないと思います。共生社会のなかで多様性を尊重するというのはそういった他者の感性や立場に思いをはせることであり、それはとても体力と精神力、そして想像力を要することだと思います。
展覧会をご覧になるなかでも、例えば伝統を重んじる人は前衛美術を毛嫌いし、リベラルな人は権力を讃える美術を軽んじるかもしれません。それぞれの好みの上ではそれで構わないのかもしれませんが、社会を生き抜き、将来の社会を形成していくうえでは、そうはいかない場面が多々あると思います。楽しい美術鑑賞が社会で生き抜くためのトレーニングにもなると思えば、こんなにお得なことはありません。無限になんでも受け入れる必要はありませんが、他者の感性に想像を広げるきっかけにしていただけると良いと思います。
ともあれ、気楽にご来館ください。難しいテーマではありますが、「フランス革命」や「第一次世界大戦」など、よく知られたトピックを通して関心を広げていただける部分も大いにあります。何より、ミレーやロダン、ルオーといった有名作家の優れた作品や、ジョルジュ・デヴァリエールやエティエンヌ・ディネのように未だあまり知られていない作家の非常に魅力的な作品が国内各地から集まっています。それらを楽しんでいただくだけでも、十分に貴重な機会になると思います。



















