2021年の1年をかけて、「アプデ輪廻」という展示を合計4回行った(*1)。展示はver1.0〜4.0へ回を追うごとにアップデートし、そのうち1回はバーチャル、3回は物理の会場で行った。本論では、4回分の「アプデ輪廻」の各ステイトメントに続けて、デジタルデータ、NFT、メタバース、仏教や信仰、そして美術について、日々考えていることを綴ってみようと思う。
墓とPC、その中にあるもの
-ver1.0-
物語というものが終わらなくなって、その代わりにアプデが入る。物語は終わるためにあり、アプデは終わらないためにある。今回の一連のシリーズはデジタルデータの実在と存命方法について、形のなくなった情報をより長く残すための不思議なハード ウェアについて、そして物語を終わらせないためのアップデートという魂の輪廻の物語についての作品群です。
日本仏教は江戸時代、徳川家によって葬式中心の仏教に変化していった。それは仏教のもつ宗教的な力を弱めコントロールしやすくするための動きだったが、日本にはちょうどよく馴染み、現代に至る。現在の我々にとって寺は、主に葬式をするところという認識であり、墓石は仏教的アイテムのなかでももっともポピュラーなものになっている。
僕は墓参りが好きで、山梨の実家に帰ったら墓を掃除するのが僕の役割になっているのだけど、掃除しているときにふと墓石がなんだかPCに似ているような気がしてきた(2020年に曽根裕の「石器時代最後の夜」という展示で、石でできたPCの作品を見た記憶も影響しているのだと思う[*2])。この墓石の中には何が入っているんだっけ? 骨が少しだけ埋まってるけど、魂が入っているという確証はない。ましてや「先祖代々の」何かが入っているわけではない。それでもここに魂があるかもしれないと信じたり信じなかったり、とくにそんなことは考えなかったりして手を合わせる。無宗教を名乗る日本の大半の人間が日常的に行う動作にしてはあまりにも宗教的な儀式だ。
コンピュターもまた、真っ二つに割ったところで、その中には目に見えるかたちでの「Adobeの写真職人屋さん」や「YouTube屋さん」が入っているわけではない。PCという箱の中も、物理的には無機質な配線と基盤の集合体なのだ。画面越しにその中身を覗いたときだけ、そこには様々な色や形の存在が確認できる。もしPCにモニターがついていなかったらどうだろうか。モニターがなければ、コンピューターの中に何が入っているかというのは、モニターを見たときの記憶を思い出して「信じる」しかなくなる。
同じように、墓にもしモニターがついてたら? デジタルデータと魂のようなものは、物理的容器(ハードウェア)が必要な、この現実世界に物理的に存在しないもの(ソフトウェア)という点で同じだ。非科学の極みみたいなものと科学の極みみたいなもののあり方が同じとは面白いことだ。