多文化主義の変容
──近年アメリカでは、福音派と呼ばれる宗教的なアイデンティティが国家を動かしているとも言える状況があり、いわゆる「宗教ナショナリズム」の影響が強まっています。現在のトランプ政権下ではとくにその傾向が顕著になっています。松山さんは、アーティストとしてこのアメリカの変化をどのように感じていますか?
松山 今回の大統領選挙を見ていて、僕自身も驚くことが多かったです。多様性や個人の尊重を重んじる人々は、当然ながら反トランプ派が多かったと思います。しかし、蓋を開けてみると、Z世代の51パーセントがトランプに投票していた。この結果は、アメリカ社会が「多様性」という概念に対して、ある種の疲弊を感じ始めていることを示しているように思います。
つまり、「つねにマイノリティの声を聞き続けなければならない」「あらゆる発言がハラスメントと見なされる」という状況に、若い世代が息苦しさを感じているのではないか。そのなかで、「トランプは言ったことを実行する」というキャラクターが、一種の映画の登場人物のように映ってしまっているのかもしれません。アメリカは俳優のロナルド・レーガンを大統領に選んだ国ですし、政治とエンターテインメントが影響し合う文化があるがあるので、今回の選挙でもそうした要素が大きく影響したのではないかと感じます。

今回の選挙では、ジョー・バイデンが数ヶ月前に撤退を決断し、カマラ・ハリスがわずか3ヶ月で一気に支持を集めたものの、最終的には急激に失速しました。そして、開票結果を見ると、共和党が予想外の州でも勝利を収め、まるでフィクションが現実に起こっているかのようでした。
そういったアメリカの分断や、宗教と政治が複雑に絡み合う状況を、僕なりに咀嚼して描いたのが《Catharsis Metanoia》(2024)という作品です。左側にはアメリカの郊外住宅、右側には日本家屋を思わせる空間を描いていて、それぞれに座る2人の人物はまるで別世界にいるように、お互いに視線も交わさず存在に気づいていない。両者のあいだには、かの有名な報道写真《硫黄島の星条旗》のシルエットが、まるで亡霊のように立ち上がっています。
この写真は日本では「敗戦」の象徴でありながら、アメリカでは「平和の象徴」として記憶されている。つまり、ひとつのイメージが国や文脈によってまったく異なる記号として受け取られるということを、あらためて強く意識させられました。そのほかにも、戦時中のアメリカ海軍のマスコットが描かれたヘルメットや、メトロポリタン美術館の東洋陶磁のコレクションを模した本棚など、東西の文化や歴史が交錯するモチーフを散りばめています。

タイトルにある「メタノイア」は、キリスト教における「回心」を意味する言葉です。父が牧師であるという自身の出自も含め、アメリカという国に精神的にも物質的にも多くを与えられながらも、それに対する複雑な感情や問いを込めた作品です。つまり、信じていたものを一度疑い直し、そこから新たな視点で向き合う──そんな“精神の転回”が、いまのアメリカ、そして自分自身にとっても必要なのではないかという思いが込められています。
──これは文化戦争、価値観をめぐる闘争という面も大きいと思います。グローバル化や多文化主義の恩恵を受けてきた人々にとって──日本人アーティストとしてニューヨークで台頭してきた松山さんもここに含まれるかと思います──これからの状況はより複雑になっていくかもしれません。例えば、美術館での企画やアカデミズムの研究者の活動にも影響が出てくるのではないでしょうか。ただ、松山さんのようにこれまでサバイブしてきたアーティストなら、この変化のなかでも新たな可能性を見出せるのではないかともと思います。
松山 これまでアメリカのアートシーンは、ポップ・アート以降、約40〜50年にわたって「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」が中心的なイデオロギーでした。それは、アメリカが世界のリアリティを「西洋のチャンネル」を通じて見せるという構造でもあったと思います。そして、アジアに関しては、「アジア系ディアスポラ(移民コミュニティ)」として扱われることが多く、それ以外の視点があまり受け入れられてこなかった。しかし、いまアメリカ国内では、多文化主義そのものよりも、「文化が重層的に折り重なっている」という視点が重要視され始めていると感じます。
例えば、「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」の影響を受けて、アメリカの美術館はジェンダーやエスニシティをより意識的に取り入れなければならなくなりました。こうした動きからも、いまアメリカが問うているのはたんなる「多様性」ではなく、「アメリカという国のなかで、異なる文化がどのように共存しているのか」ということだと感じます。

──日本は政治的・経済的・文化的にアメリカの変化の影響を直接受ける国ですが、やはり少し時差をもって変化が訪れる傾向があります。近年、日本でもようやくダイバーシティが強く意識されるようになってきており、しばらくはその方向に進んでいくのではないかと思います。いっぽうで、トランプ時代のアメリカではすでにDEI(多様性、公平性、包括性)の限界や変容が議論されており、今後日本へどう影響してくるのかが注視される状況です。
そう考えると、松山さんの作品を日本で見るという経験は、アメリカの社会状況を先取りして体験することにもつながるのかもしれません。そして、それが日本人である松山さんの視点を通じた表現であることで、日本の観客にとってもより受け入れやすいかたちになっているのではないかと思います。この点に限らず、日本で作品を発表する意味について、どのようにお考えですか?
松山 まさにそこなんですよ。本当に強く感じています。例えば、僕らの先輩である村上隆さん、奈良美智さん、杉本博司さんといったアーティストたちは、日本とアメリカ(ときにヨーロッパ)との関係性のなかで、自分たちの声を明確に打ち出し、コンテキストのはっきりした作品をつくってきました。それは、彼らが1990年代という時代において、強いメッセージ性を持つことが必要だったからこそ可能だったのだと思います。
しかし、僕らの世代が同じ方法をとっても、時代の要請が違うため、あの時代と同じような影響力を持つことは難しいでしょう。むしろ、僕らがやるべきことは「外から中を見る視点」と「中から外へ発信する視点」の両方を持ち、それを往還しながら新しい接点をつくることではないかと思います。
僕自身、海外で創作活動を始めた日本人アーティストとして、いまの世界の動き、とくにアメリカを基軸とした国際的な視座を、日本の観客に提示することができる。それが、自分が日本に対して貢献できることのひとつではないかと考えています。



















