日本一の乗降客数を数えるJR新宿駅。その東口駅前広場が、大きく変貌した。ロータリーの中央に出現した巨大彫刻《花尾》(英語表記《Hanao-San》)を含む広大なスペース。手がけたのはニューヨークを拠点に世界で活動するアーティスト・松山智一だ。25歳で単身渡米し、現代美術の中心地でキャリアを重ねてきた。松山にとって母国における初の巨大パブリック・アートとなった今回。そこに込めた意図や、パブリック・アートの可能性について、本人に話を聞いた。
新宿の「匂い」が持つポテンシャル
──あまりの巨大さに驚きますね。まさか新宿駅にこのようなパブリック・アートができるとは思いませんでした。
僕にとってこれ以上ないほどのものができたので、本当によかったですね。世界最高峰の工房でつくることができたので、今後の自分にとっても糧になります。台座を入れて8メートルあるのですが、これだけの情報量がありながらクオリティを維持するのはとても大変でした。だからこそ充実感がありますよ。
僕は「画家」のイメージが強いと思うのですが、海外ではかなりの数の立体作品をつくってるんです。海外の美術館や大きなギャラリーだと展示できるけど、日本だと(住宅事情などもあり)彫刻のマーケットはまだ小さいこともあって、展示の機会もなかなかない。だから僕の立体作品を見たことがある方はまだ少ないかもしれませんね。
──まずどうしてこの作品を新宿に設置しようと考えたのか、その理由について教えて下さい。
アーティストがパブリック・アートをつくる場合、スタジオで日常的につくられている作品をそのまま持ってくる場合もありますが、僕は場所との適性を追求したいんですね。だからこの東口駅前広場という場所に、どうアプローチできるかを考えたのです。
ここは、見ようによっては新宿という街のキャラクターが出ている場所なんですよ。喧騒感があり、人口密度も高く、エレガントではない。でもその描写の仕方で、新宿らしさ──つまりそれは海外から見ると東京らしさでもあり、日本らしさでもある──を引き出せるんですよね。新宿ってどういうイメージを持ちますか?
──俗っぽいですが、一言で言えば「カオス」でしょうか。
僕が思うのは「とらえどころがない」ということです。新宿は「匂い」みたいなもので、いろんな要素が混ざり合っていて、ややもすると「蓋をしたくなる」ものになりかねない。でも海外から見るとそれは「香り」であって、かぎたくなるものなんです。歌舞伎町やゴールデン街、二丁目しかりね。だから僕はこのダークサイドを孕むような場所に、ポテンシャルを感じていたんです。
僕が住むニューヨークだとグランドセントラル駅がありますが、世界の巨大な駅にはパブリック・スペースがあることがほとんど。でも新宿駅には憩いの場がないじゃないですか。SNSで体験をシェアをし、それに影響を受けて追従行動することが多い現代においてはとくに、こういうパブリック・アートを設置することは非常に重要な手法になっていくと思うんです。それは企業がやっていかなくてはいけないこと。
「ザ・現代美術」なタイトルではダメ
──作品のディテールについてお聞きします。作品をよく見ると、様々な「柄」が盛り込まれていますね。松山さんは平面作品においても多くの「柄」を描くことで知られていますが、何を意味しているのでしょう?
新宿の「匂い」は東京のなかでもかなり濃密な、様々な価値観が混ざり合っているもの。そのキャラクターを作品に反映したいと思ったんです。作品には、鎌倉時代の仏教彫刻で使われている柄や、中世のダマスク柄、あるいはここ新宿でも大量消費されている洋服のテキスタイルの柄などが入っているんです。新宿が持っている、いろんな匂いが混ざり合っているような様子を造作物にしたかった。
──タイトルの「花尾」にしろ「Hanao-San」にしろ、松山さんの通常の作品とは少しニュアンスが異なりますよね。こういう言い方は変ですが、あまり「現代美術らしくない」というか、意外性があります。
昭和っぽいでしょ(笑)。でもそれが狙いなんです。ここで「ザ・現代美術」なタイトルを付けるのはダメだなと。それでは意味がない。僕らのフィールドは「アートワールド」ですが、その特有の言語をここに持ってくることが果たして正解なのか、と考えたんです。
アートが「持つべきではない大衆性」と「持つべき大衆性」というのは、アーティストがずっと考えていることだと思うんですね。アカデミックであり白人至上主義であり権威主義的な欧米圏のアートワールドで構築された言語は、特権階級がない日本では通用しない部分もある。僕は今回の作品で、新宿が持つ大衆性みたいなものを体現したかったんです。だからあえてわかりやすいタイトルにしました。
英語表記は《Hanao-San》ですが、これは海外の人が日本人を呼ぶときの「〜〜san」と同じです(笑)。日本人はキャラクターに名前を付けるのが得意ですよね。そのDNAとして、最初から作者側で作品にキャラクター名をつけてしまおうと。待ち合わせ場所としても呼びやすいじゃないですか。「《Hanao-San》で待ち合わせね」とか。
──そういえばこの作品には「正面」がありませんよね。マルチアングルならではの難しさもあったのではないでしょうか?
ありましたね。僕は画家なので、この彫刻も「画家がつくる彫刻」なんですよ。キース・ヘリングにしてもそうですが、画家がつくる彫刻というのは、フラットな(二次元的な)要素がある。だから僕の場合も、画家でしかつくれない彫刻をつくろうと思って立体物にアプローチしています。二次元的な柄をどうやって複雑な造作物にするかは挑戦でしたね。
素材は鏡面仕上げなので、実際の新宿の風景が映り込む。景観すら作品の一部になるんです。アートは僕らが生きている共同体の姿を切り取って、それを違うかたちで可視化することで鑑賞者にメッセージが伝わるわけですよね。だから新宿のいろんな価値観がパッチワークされたこの作品が、街を映す鏡のようになればと思ったんです。
新宿に「概念としての桃源郷」をつくる
──今回の作品は立体物だけではなく、床面にも広がっています。この狙いは?
これがポイントなんです。通常、日本だとデベロッパーなどがつくった場所に、「お化粧」としてアートが置かれる。今回のプロジェクトはそうではありません。僕がつくったコンセプト「Metro-Bewilder」(メトロビウィルダー)──都会を意味する「Metro」(メトロ)と、自然を意味する「Wild」(ワイルド)、そして当惑を意味する「Bewilder」(ビウィルダー)の3つを合わせた造語です──を建築家が具現化するというプロセスであり、なかなか前例のないものなのです。
新宿の混沌とした感じを、どうパッチワークし、集約できるのか。そこで考えたのが、周囲の看板の色を拾って、床面の色にするということでした。周囲の環境に抗うことなく、むしろその色の彩度を上げることで、異物感を出しすぎることなくアートを馴染ませる。素材だってそうですよ。コンクリートやモルタル、タイルなど、周囲環境にある素材を全部床にパッチワークさせている。
──コンセプトには「自然(Wild)」という言葉が入りつつも、植物(植栽)をたくさん配置するということはされていません。むしろ少なくすら感じますね。
東京には緑地化している場所もたくさんありますが、コンクリートの上に自然を置いても、それはただの「コンクリート上の自然」でしかないんです。自然と都会が同時に存在することは難しく、どちらかが圧倒してしまう。
だから僕は「アート」という言語を使い、嘘の自然=様々な植物柄が入った《花尾》をここに持ってきた。都市と自然が共存する「ユートピア」を体現するのはアートにしかできません。つまり、「概念としての桃源郷」がつくりたかったんです。
──その「概念としての桃源郷」を、大企業であるルミネとJR東日本に対して伝え、説得したわけですね。想像するだけで大変そうです。
構想から2年半を要したので、本当に大変なプロジェクトでした(笑)。一歩進んで五歩下がるくらい。でもアーティストというのはロビイストみたいなもので、関係者のコミュニケーションを整え、皆の気持ちを同じ方向に舵取りしていく役割でもある。それは元来、レオナルド・ダ・ヴィンチやアンディ・ウォーホルや岡本太郎といった先達がやってきたことなんです。
日本は「アートは見るもの」という感覚が強いですが、僕はアートを機能させたいんですね。この規模のプロジェクトだと金額も大きいし、その分「それだけ金をかけてやる意味はなんだ」という意見も出てくる。でも実際、この作品で人々の動線ができればここの地価も上がるし、若者たちが集う新しい「ハブ」にもなる。
アートを「機能させる」必要性
──先ほどおっしゃったように、パブリック・アートは「お化粧」としてその場所に作品をドンと置いておしまい、というケースがほとんどです。
そういうのは税金の無駄遣いですよ(笑)。日本にはいろんなパブリック・アートがありますが、上手くいっていないことが多い印象です。そこには施主がアートをわかっていない、あるいはアーティストが社会をわかっていないなど、様々な原因があるかと思います。
いっぽうアメリカだと、「パブリック・アートは作家にとってリスクがあるからやるな」とよく言われるんですね。「作家の価値が下がる」と。
でもそれはパブリック・アートの機能を理解していないから。アーティストがパブリック・アートを介して動線をつくり、人が集まり、地価が上がって経済につながる──これってすごい構造じゃないですか。アートを使った文化のインフラ整備が、いかに経済に直結する影響力を持っているかを知るべきです。
──そこまで考えているアーティストは少ないかもしれません。「動線」という言葉が出ましたが、今回のプロジェクトはアートだけでなく周囲の椅子やベンチなども一体に設計されていて、人の行動を変化させる要素があるのも特筆すべき点です。
僕は25歳でニューヨークに行き、発表の場がなかったので屋外や自分が住んでいる場所で作品を見せざるをえなかった。いまは美術館や名の知れた場所で展示できるようになりましたが、美術の世界は進んで行けば行くほど、実社会と隔離されていくという感覚があるんです。でもそれが美術の世界であって、次の美術の文脈へとつなげていくのがアーティストの大義名分でもある。
ただ、そういう面は持ちつつも、僕は違うかたちで文化インフラの整備がしたいんです。アートを見るのではなく、機能させると。
今回のプロジェクトは前例がないから、日本のケース・スタディになるのかどうかはまだわかりません。でも「(美術館のような)インフラのなかに入るアート」という既存の構造ではなく、それを逆転させるスキームができれば、僕は満足です。