記号と象徴の再構築
──松山さんは、デザインを学びながら、美術についてはニューヨークに渡ってから独学で習得し、みずからの視覚言語や造形言語を獲得してきました。2023年の弘前から今回の作品を見ていくと、それがさらに一段階進化し、より高次元の表現に達しているように感じました。とくに印象的なのは、非常に複雑な要素が共存していながら、ひとつの画面として違和感なくまとまっている点です。影の有無、写実的なモチーフ、アニメや漫画的な表現が混然一体となりながらも、統一感を保っている。画面を構成していくその自由度が増しているように見えましたが、ご自身ではどのように感じていますか?
松山 やはり、長い年月をかけて新しい技術を開拓していく意識はつねに持っています。そのなかで、岩渕さんが指摘された「影」は、自分にとっても大きな変化のひとつです。昔の作品にはほとんど陰影を入れていませんでした。それは、ひとつには僕自身がアカデミックな美術教育を受けていなかったため、「写実的な表現はできない」と自ら決めつけていたこと。そしてもうひとつは、「描かない」こと自体が自分のスタイルの一部になっていたからです。

しかし、「ファースト・ラスト」シリーズでキリスト教的なテーマを扱い始めたとき、必然的にルネサンス絵画に遡ることになりました。それを改めて見直すなかで、「光と影」は西洋絵画において極めて重要な技法であることを再認識し、自分の作品にも積極的に取り入れようと考えました。その結果、グラフィカルな要素と、例えば17世紀の静物画のような要素が融合し、視覚的な違和感を持つ「マリアージュ(融合)」を生み出すことができるようになりました。
例えば、《Divergence Humble Solitaire》(2024)では犬が描かれていますが、これは17世紀の動物画の影響を受けたものです。また、柑橘類はかつて高級品として静物画の典型的なモチーフでした。これらの要素をインテリアのなかにフィクションとして配置しつつ、影のある部分とない部分を意図的に共存させることで、視覚的な違和感をつくり出しています。こうした手法を探求するなかで、「異なる要素をどのようにひとつの画面に収めるか」をつねに試行錯誤してきました。そして、「光」を加えることで、より奥行きが生まれ、作品のなかのモチーフが際立つようになったと感じています。

──これまでは、異なるモチーフを組み合わせる手法が大きな特徴でしたが、今回はそこにさらに空間的な操作が加わっているように思います。モチーフの重なりだけではなく、異なる空間同士が絡み合い、新しい構造を生み出しているように感じました。そうした空間の統合は、どのようにして生まれたのでしょうか?
松山 今回のシリーズでは、インテリアデザインの要素を取り入れることで、より複雑な空間構成に挑戦しました。その過程でとくに興味を持ったのは、フランスの絵画の「記号性」(*1)を現代の文脈で再構築することです。
今回参照したフランスの絵画には、あらゆる要素が記号として配置され、それらが組み合わさることで物語が形成されるという特徴があります。僕は、この記号のシステムを現代に置き換えたらどうなるのかを探求しました。また、日本美術の影響も取り入れています。例えば、細部まで緻密に描き込むことや、記号性の再構築といったアプローチです。日本の美術における象徴的な描写と、フランスにおける絵画の記号性を掛け合わせることで、新たな視点を生み出そうと考えています。

例えば《Lost Full Cycle》(2024)という作品では、複数の建築雑誌から引用した異なる階段のイメージを組み合わせ、果てしなく上昇していくような構造をつくり出しました。そこに登場する若者たちは、まるで同一人物の成長過程を表しているかのようでもあり、ニューヨークの老舗イタリアンレストランに使われていたシマウマ模様の壁紙や、ジグマー・ポルケの描いたヤシの木など、文化的な記号も随所に配置しています。こうした構成によって、「上昇」とは何か、「どこまで上がれば満足なのか」といった問いを、見る人に委ねるような絵画を目指しました。

もうひとつの《Bring You Home Stratus》(2024)では、京都の旧三井家下鴨別邸と、ビバリーヒルズに実在するスペイン植民地様式の邸宅をつなぎ合わせることで、東西の「豊かさの象徴」とされてきた空間をひとつの画面に共存させました。変形キャンバスには、田中一村やカミーユ・コローの風景を参照した自然の要素も描き込まれています。画面中央の2人の人物は、アンニーバレ・カラッチの《キリストとサマリアの女》(1594-95年頃)を引用した構図から発想を得ており、本来は宗教や民族、性の違いを超えた普遍的な救いの場面です。しかしこの作品では、東西の風景が強引につながれたように、2人の若者のあいだにも違和感やズレをあえて組み込み、それぞれがまったく異なる文脈のなかに配置されているような構造にしています。ここでもやはり、記号のレイヤーをずらしながら現代の文脈に読み替えることで、新しい物語を立ち上げるという試みをしています。
*1──ここで言う「記号性」とは、ロラン・バルトらが展開した記号論的視点を指し、絵画におけるモチーフや構図、色彩が文化的・歴史的文脈をもとに意味を持つものとして機能することを意味します。例えば、フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの《ソクラテスの死》(1787)は、構図や光のコントラスト、登場人物の配置すべてが哲学的・倫理的メッセージを担う視覚的テクストとなっており、高度に記号化された絵画の一例です。松山の作品においても、過去の記号的イメージ──ルネサンス絵画から報道写真、ポップカルチャーに至るまで──をサンプリングし、文化的・政治的なコンテクストをずらしながら現代の新たな意味体系として再構築している点に、この「記号性」への意識が表れています。



















