2021.5.29

ニューヨークで生き抜くために獲得したDIYの芸術言語。松山智一インタビュー

雑誌『美術手帖』の貴重なバックナンバー記事を公開。本記事では『美術手帖』の最新号(2021年6月号)より、アーティスト、松山智一のロングインタビューを公開する。25歳で単身渡米し、現代美術の中心地で活躍してきた異色の存在が獲得した、独自の芸術言語に迫る。

聞き手=山本浩貴 構成=杉原環樹

ニューヨークのスタジオにて 撮影=山田陽
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 『美術手帖』(2021年6月号)より松山智一のロングインタビューを公開。バワリー・ミューラルでの壁画制作や上海・龍美術館での個展を開催し、作品はマイクロソフト社やドバイ首長国の王室にコレクションされる松山。JR新宿駅東口の巨大パブリック・アート《花尾》でも知られる作家の制作の源流が語られた充実のインタビューとなっている。

ニューヨークで生き抜くために獲得したDIYの芸術言語

 雑誌のピンナップ、古典絵画、現代美術、古今東西の装飾、インターネット広告など、様々な文化的な事象を混交し、作品をつくり出す松山智一。独学で美術を勉強したという、松山のルーツと現在までの歩みを、コロナ禍の3月のニューヨークのスタジオで聞いた。

肌で「マイノリティ」を知った幼少時代

──松山さんは日本での美術の経験がないまま渡米されて、アーティストとしての活動をスタートし、その後国際的な活躍をされています。そのキャリアは日本の現代美術家のなかでも珍しいものだと思います。まずはご自身のルーツについて、振り返っていただけますか?

松山 僕は岐阜県の高山市という田舎町に生まれました。幼少期の経験で大きかったのは1985年の8歳の頃、母の希望でロサンゼルス近郊のオレンジカウンティという街に移住したことです。ここでの生活は僕の人生の原体験になっています。学校に行くと、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系など様々な人種がいて、当然日本の田舎とは全然違います。決して治安が良い場所ではなかったので、もう毎日がサバイバルですよ。日常的にアジア系の人が殴られたり、自分自身も腕時計を脅し取られたり、子供ながらに「マイノリティ」としてその社会で生きてゆく現実を目の当たりにしました。

 そんな状況での精神的支柱といえば、当時西海岸で流行っていたスケートボードでした。スケボーは低所得者層にとっても身近な遊びで、同世代の多様な人種の「キッズ」たちが熱中していました。街を自由に動き回って、子供が普段足を踏み入れることができない立入禁止の場所にも忍び込んで、言葉にならずともアメリカ社会のリアリティを肌で感じていたんだと思います。結局、3年半住んだのちに高山に戻るんですが、異国での鮮烈な経験に影響されアメリカナイズされた自分は、日本の学校になじむことができませんでした。そのときの日本に適応できなかった感じもまた、どこか自分のルーツにある気がします。

 帰国してからは、中高一貫の学校で寮生活を送り、その後大学に進学します。大学ではスノーボードにのめり込みましたね。当時のスノーボードは「競技」というより、そのファッションやライフスタイル、そして身体性を含めて、自分自身を「表現」するスポーツでしたが、海外遠征などプロとしての道に挑戦するなかで、競技中に大怪我をしてしまいます。そこで新しく自分を表現できるものを探していたのですが、当時はサブカルチャー系雑誌の誌面を賑わしていたDIY精神あふれるユースカルチャーと、アートが交差し始めたまさに黎明期だったんです。プロ・スケーターだったクリス・ヨハンソンのようなアーティストが既存の枠に収まらず、自身のライフスタイルや日常の延長線上で、等身大の作品をつくるその表現の姿勢に、僕はすごく共感したんですよ。

──当初はアーティストというより、デザインの世界を目指されていたんですよね?

松山 スノーボードの世界を諦めた後に、表現者になりたいという漠然とした思いを抱えて大学に通いながら、同時に桑沢デザイン研究所の夜間部に通っていました。その後に本格的にニューヨークへの留学を決意して、プラット・インスティテュートに入学します。ただ、そこで最初に感じたのは落胆でしたね。僕はようやく自分の表現言語を学べると思っていた。でも、最初に受けたのは、デザインの実利的な授業だったんですよ。なんだこれは面白くないと(笑)。このまま授業を受けていても、情報伝達が上手なだけのオペレーター的なデザイナーになってしまうと思いましたね。

ニューヨークのスタジオにて 撮影=山田陽

自分の言語を生み出し、伝えるということ

──現代美術への入り口はどこにあったのですか?