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ソニア・ボイス インタビュー:イメージを超えて、音で表象すること。ジャズ、パフォーマンス、そして「聴くこと」の政治性

現在、森美術館で開催中の「MAMプロジェクト034:ソニア・ボイス」(〜3月29日)では、イギリスを代表するアーティスト、ソニア・ボイスのインスタレーション作品《ディボーショナル・ウォールペーパー・アンド・プラカード》(2008–20)が紹介されている。本インタビューでは、本展の企画を担当したヴィクター・ワン(森美術館アジャンクト・キュレーター)が、ボイスとともに、ジャズやパフォーマンス、音による表象、そして記録とアーカイブをめぐる問題を縦横に語り合う。イメージを超え、音や身体を通じて歴史はいかに共有されうるのか──その実践と思考に迫る。

聞き手=ヴィクター・ワン 翻訳=宮澤佳奈

ソニア・ボイス 撮影=稲葉真

「教室」としての夜、そして音の社会空間

──まずは、ある種の「教室」としての「夜」についてうかがいます。若い頃、クラブやバー、音楽ヴェニューといった場所は、あなたの学びにおいてどのような役割を果たしていましたか。ダンスフロア、ブルース・ナイト、海賊放送シーン、ベースメント・パーティなど、音、身体、そして社会的空間についての考え方を形成するうえで、美術学校と同じくらい決定的だった場所はありましたか。

ソニア・ボイス(以下、ボイス) それには、私が美術学生になる以前まで遡ってお答えしたいと思います。1960年代のロンドンで育った私は、ほとんど自分の足で立てるようになった頃から、両親に連れられてハウス・パーティに参加していました。ここであえて「ハウス・パーティ」と言うのは、当時「西インド系」あるいは「アフリカ系カリビアン」と呼ばれていた人々が、フォーマルなクラブやバーに入ることが極めて困難だったからです。

インタビューの様子。左からヴィクター・ワン、ソニア・ボイス 撮影=稲葉真

 そこで、社交の多くは、私的な住居空間を中心に組織されました。自宅でパーティを主催して、それぞれが家族をみな連れていき、子供たちが階段を駆け上がったり、庭で遊んだりするいっぽうで、大人たちは社交に興じていました。思えば、父親たちは、いまなら「かなり怪しい父親ダンス」と呼びたくなるような踊りをやっていて、当時はそれがとにかく格好悪く感じられました。とくに思春期に入ると、「お願いだから、もうやめて。恥ずかしいから」と、叫んでいたものです。

 しかし、そうしたハウス・パーティはきわめて重要な意味を持っていました。それはたんなる不定期の集まりではなく、社交の主要なかたちだったのです。こうしたなかから、いわゆる「ブルース・パーティ」あるいは「シャビーン」と呼ばれる場が生まれていきました。シャビーンとは、誰かが自宅の、しばしば地下室を、インフォーマルな会場として開放することを指します。入場料を支払い、飲食が提供され、夜中の2時に夕食をとっている、ということも珍しくありませんでした。アメリカでは、これに近いものを「レント・パーティ」と呼ぶかもしれません。 

 それらは実質的にはマイクロ・ビジネスでした。というのも、ブラック・コミュニティにとって、フォーマルなナイトライフの空間にアクセスすることは困難なだけでなく、場合によっては危険を伴うことすらあったからです。したがって、こうしたパーティは、アフリカ系カリブ文化の一形式であり、私にとっては、友人と会い、時間を過ごしながら、音、身体、そして社会的空間がどのように結びつくのかを学ぶ場でもありました。それが、一番早い段階で私をかたちづくった環境でした。

 やがて美術学生になった私は、ミッドランド地方のバーミンガムとウルヴァーハンプトンの間に位置する、スタウアブリッジという小さな町にある、非常に小さな美術学校で学ぶことになります。町の有色人種の人口はごくわずかでしたし、美術学校のなかではさらに少なかった。そうした地理的条件のため、クラブに出かけるといっても、実質的な選択肢は2つしかありませんでした。ひとつは地元のクラブ、もうひとつはバーミンガムに出て、1980年代初頭にはデュラン・デュランなどが頻繁に通っていたことで知られる「ラム・ランナー」に行くことでした。

 同時に、私はもともと活動的な気質を持っていました。学生時代には学生バーの運営を任され、バンドのブッキングも担当していました。金曜の夜にはライブ演奏を組み、その内容が良かったため、町の人々も足を運んでくれました。私がブッキングしていたのは、パンク・バンド、ジャズ・バンド、ニューウェーブのバンドなどで、とても幅広かった。

──それは何年頃のことですか。

ボイス 1982年頃です。私が20歳くらいのときですね。つまり、美術を学びながら、同時に学生バーを運営し、毎週金曜の夜にバンドをブッキングしていたことになります。ときには、かなり荒れることもありました。じつは、初めてルビー・ターナーと出会ったのそこでした。彼女は後に「ディボーショナル」プロジェクトに参加してくれました。そう考えると「ディボーショナル」は、バンドをブッキングしてライブ音楽のための空間をつくっていた、あのときから始まっていたと言えるかもしれません。

「MAMプロジェクト034:ソニア・ボイス」の展示風景より、ソニア・ボイス《ディボーショナル・ウォールペーパー・アンド・プラカード》(2008-20)
撮影=加藤健 画像提供=森美術館
© Sonia Boyce. All rights reserved, DACS & JASPAR 2025 G4025

 ただし、そのスケールは非常に小さなものでした。私の学年は30人にも満たなかった。現在の美術学校のように、一学年に数百人が在籍する環境とはまったく異なります。町そのものも非常に小さく、徒歩10分ほどで横断できる規模でした。クラブはひとつ、そしてたんに「ユニオン・バー」と呼ばれていた学生バーがひとつ。それがほぼすべてでした。

 ただ、小規模な環境だったからこそ、私たちはまるで蜂の群れのように、一体となって動いていました。学生バーを運営し、音楽をプログラムすることは、観客を管理することではありませんでした。むしろ社会的・文化的な共有空間をつくる行為だったのです。その意味で、あの夜の時間は、スタジオや教室と同じくらい、私をかたちづくったと言えます。

編集部

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