「ボールを持って、鬼頭とサッカーをやりに来た」
鬼頭健吾 「MtK Contemporary Art」を始めて2年経ちますけど、ギャラリーや美術館ではあんまりやらないような組み合わせで展覧会をしたいと思って、小林さんに結構前からお願いしてたんですよね。それで、小林さんに「誰か一緒にやりたい方はいらっしゃいませんか?」と聞いたら、「鬼頭でいいじゃねえか」って言われたのが始まり(笑)。
小林正人 グループ展はさ、そのギャラリーの空間の規模感だったらほとんど関心ないなと。かといって個展も嫌なんだよ。「鬼頭でいいじゃん」っていうのは、要はモチベーションとして「京都に行って、鬼頭とサッカーやろう」みたいな感じよ。
鬼頭 ははは(笑)。そういうノリで。
小林 つまり絵を描いていてね、自分からは別に「誰とやりたい」とかはないわけ。美術館とかギャラリーとか、他の人が俺を誰かと組み合わせるのは全然構わないんだよ。それはキュレーションだからさ。だけど、俺は自分でキュレーションをやるタイプでもないから。鬼頭が京都でギャラリー始めたっていうことが重要で。そこに友達だから行くっていう感じだよね。ボール(作品)持って鬼頭とサッカーやりに。
鬼頭 僕はもちろん小林さんとやるのはすごく嬉しいですよ。ただ、僕から「小林さん、僕とふたりでやってくれませんか」とは立場上、なかなか言いづらいですよ。
小林 俺は鬼頭がいいと思ったけどね。京都に行く口実としてもさ。
鬼頭 他の作家さんもそうですけど、意外と京都で展覧会をやってないんですよね。
小林 京セラ(京都市京セラ美術館)もそうだけど、最近、鬼頭とかギャラリーとかいろんな人たちの頑張りがあるよね。京都ってさ、やっぱり歴史があるじゃない。地面っていうかな......東京と違ってコンクリートじゃなくて下に土があるっていう感じの、まだ魑魅魍魎がいるみたいな“凄み”があるんだよね。雅でさ。だから結構好きだよ、俺は。
ペア作品を同一空間に展示した理由
鬼頭 そろそろ展覧会やりましょうというときに、小林さんが「(作品を)2点しか出さない」って言い出したんですよね。基本的に僕の方が作品数は多いとしても、最初は「そのバランスはないな」って思ったんですけど、「あ、はい」としか言えなかったですね(笑)。それでどうしようかと思って。結局、作品の位置を対称的に展示したんですけど、小林さんにはこの完成形が見えてたんだなと思ったんです。
小林 俺はさ、ペア作品を持っていこうと思ったんだよ。「馬」を持っていこうということで。馬は画家(自分)の肖像なんだよね。それで、ペアの「星」があって、ふたつで十分だと思ったわけ。でも通常だと、俺はペア作品を同じ空間には展示しないんだよ。仮にここで個展をやりなさいって言われたとしたら、俺はやっぱりペア作品を同一空間に展示しなかった。でも、鬼頭の作品が同じ空間にあるから、初めてペアで展示できると思ったんだよな。
鬼頭 配置に関しては、僕が小林さんに相談せずに決めましたよね。作品を出すって言われただけで、どこに展示しろとは言われてないから。スタッフとも話して、ちょっとここ以外考えられないなってなりました。
小林 結構繊細な話になっちゃうけど、個展でペア作品があの空間の中に一緒に入ってるとトゥーマッチなんだよね。なんていうか、教会みたいな感じのストラクチャーだし、まったりしすぎるんだよね。そのストーリーが俺は嫌で。
でもそこに鬼頭が入ると、天の川みたいになるっていうのかな。意味を失くしたようなものが俺の作品の周りを固めて、ロマンチックな要素が入る。二人展のもつ親密性がちょうどよくなるというか、ストーリーがあっても悪くないと思った。
鬼頭 今回、本当は平面からパイプが飛び出てるシリーズの作品(big rip)も混ぜようと思ったんですけど、「小林さん、どうと思いますか?」って聞いたら「いや、あのシリーズ(cartwheel galaxy)だけで行け」って言われ......やばいと思って急遽つくって足してって(笑)。ギリギリまでやりましたけど、結果的に良かったですね。やっぱり壁にピタッとハマっている方がいいなと。
小林 そうだね。単純に平面作品の方がいいなと思ったよ。
鬼頭 今回は展覧会のタイトルも付けませんでしたね。ただ二人の名前だけ。
小林 変なテーマがあったらやっぱり俺、そこにペアを展示しないわ。友達だからやるっていうのと、その親密性が自己満足でモヤっとした感じになるのとは別じゃない。その微妙なとこが、今回は鬼頭のおかげで上手くいったっていうね。
二人は真逆のアーティスト、ではない
小林 ぶっちゃけさ、鬼頭と展覧会やるって話すと、みんな「えっ」て言うんだよね。「真逆じゃないですか」とかさ。もっと言えばさ、要するに「鬼頭はチャラい」って。でもそれはみんな何もわかってないよな。鬼頭はずっと生き延びている画家なんだよ。印象としてはチャラい人だけど、でも「チャラい立派な画家」なんだよ。
鬼頭 「チャラい」という言い方は、ちょっと軽やかな感じはありますよね(笑)。基本的に僕は重苦しいというか、いわゆる作家然としたものが大嫌いなんです。嘘くさいってずっと思ってるから、自分にとってはそれを否定したい。ポーズをとる行為があんまり好きじゃない。だからそう言われるのかもしれないけど(笑)。でも小林さんはそういうのとはまた違って、このままなんですよね。日本の中でそういう存在って、小林正人くらいしかいない。結構稀有な存在だから。それでもう、みんな「好き」ってなっちゃう。
小林 俺と鬼頭はね、やっぱり真逆じゃないよ。絵のことで言えば、俺はいつもは(他人の絵は)観客席から見てるっていうか、鬼頭の作品もギャラリーや美術館で見るしさ、ピッチに降りてはないわけよ。でも同じ空間に作品を並べるっていうことは、同じグラウンドに立つっていうことなんだよね。そうすると、やっぱり「わかる」んだよ。
例えば鬼頭の色の使い方っていうのは、ひとつの色のある強さとか、重さとか、そこについてきちゃう意味みたいなものを軽く、チャラにするっていうかさ。フラフープ(編集部注:鬼頭健吾がインスタレーションで使用する素材のひとつ)だってひとつだったら、結局意味がついちゃうじゃん。要するにひとつの色にさ、次の色を重ねて、重ねて、重ねてってやって、軽くして、無効にしていくっていうかな。色が「混ざる」とやっぱり重くなっちゃうんだよ。だから、混ざらないように「重ね」てるんだよね。それって技術なんだよ。だからさ、立派な画家なんだよね。結局、背負ってやっている奴はやっぱり真逆っていう感じじゃないんだよ。だから一緒にやれるんだよね。
重要なのは「ヴィジョン」を現実化できるかどうか
小林 最初に鬼頭に会ったのは、鬼頭がまだ学生に毛が生えた頃だったかな?
鬼頭 僕が小林さんの作品を実際に初めて見たのは、シュウゴアーツかな。多分、最初に知ったのは、『美術手帖』のベルギー特集。そのとき大学院生でしたけど、違和感から始まりましたよね。そもそもキャンバスを解体する行為を、小林さん以外の作家で見たことがなかった。
小林 当時は絵を床に置くのさえなかったもんね。
鬼頭 それを絵画としてどう成立させるのか。最初はそれが衝撃でしたね。
小林 結局、自分が自由にヴィジョンを現実にしていくための、好きなものを好きに描けるようにするための場所が必要になっただけで、主義が先にあるわけじゃ全然ないから。
鬼頭 僕は油絵科出身だし、その自由度みたいなものを色々考えるわけじゃないですか。学生時代はルールにがんじがらめになっているので、どうやって脱するかみたいな話もしましたよ。田中敦子さんとか「具体」みたいなのにもともと興味があったし。それとまた全然違う興味が小林さんにもあった。それで実際にお会いしたときに、小林さんってこういう感じかと。あの時代はネットもないから誌面で見てるだけで、「この人、本当にいるかどうかもよくわからん」という感じでしたからね(笑)。
でも作家って面白くて、作品と作家のイメージがずれることってあんまりないと思うんですよ。小林さんもイメージ通り。この人があの作品をつくるってことがすごく一致する。
小林 アーティストにしろ何にしろさ、人間って何かをするときは、必ずあるヴィジョンを持っているんだよ。それを現実化できるのは技術を持っている人。そのヴィジョンっていうのは自由でさ、別になんだろうがいい。どのプレーヤーも自分のヴィジョンを持って自分のサッカーをつくり上げようとしてるんだよね。ピッチだけじゃなくて、上からフィールド全体も見ながら、あらゆることをやってるんだよね。作家ごとにやり方が違うだけでさ。
鬼頭 僕なんかはもともとデッサンや構図があんまり上手じゃなかったんですね。だけど色だけは得意だった。空間把握能力もやたら長けてたけど建築的な要素はダメで、なんの興味もなかったんです。結局、「ある空間の中にどういう風につくっていくか」ってことに興味があるんだってわかったんですよ。そうやって結構早い段階で、自分の興味と得意な部分っていうのをちゃんと把握できたっていうのが強かったかな。
小林 さっきも言ったけど、鬼頭の色の使い方とかそういうのは、絵についてくる「意味」を薄くしていくやり方だよ。いろんな考えとか言ってるけど、やっぱりほぼ感覚でやってるよね。だけどそれは当たり前だよ。言葉で言えたらさ、誰も絵なんて描かないもん。
「魔法なんだよ、言っちゃえばさ」
小林 鬼頭は色々観察したり、いろんな知識入れたりするじゃん。でも、作品をつくるときの自分の感覚がはっきりしてるんだよ。ぶれると思いきやさ、ぶれないんだよね、なぜかね。
鬼頭 自分でも不思議なんですけど、ぶれないんですよ。例えば90年代終わりの学生の頃、僕は写真も絵画も全部並行してつくって、並行して発表するという風にやっていたんです。でも当時は、そういうものを同時に同じ空間で発表する人は誰もいなかったんですよ。「ひとつに絞った方がいいんじゃない?」って言われたことがあったけど、僕は全然違うと思ったんです。彼らはそう思っても、僕はそう思ってないんだからやっぱり違うんだなと。言われたから自分がそっちに行くわけではなくて、違いがはっきりするってことが多いかもしれませんね。ただ、意見は欲しいという感じだったかもしれない。
小林 ぶれないって言っても、「こうじゃなくちゃいけない」っていうのに凝り固まって、それを守ることに汲汲として自分が傷つくのを恐れてる奴もいるんだよね。そういう奴とは一緒に話してもしょうがないし何もできない。ぶれないだろうけど、それは俺からするとぶれるぶれない以前の問題。一概には言えないけど、鬼頭はぶれるぶれないじゃない。鬼頭は外界のいろんなものが入ってきても、それを取り入れたり、透過させたりしてるだけで、本体はさほど無いかもしれない。
鬼頭のインスタレーションとかも、「こういうもの」みたいな本体って別にないじゃん。普通何かをやると核みたいなものができるんだってば。紐だって結び目とかね、何かを形にしていくときには、それの糊代みたいなものがついちゃうんだよ。それがないようにやるっていうのは、テクニックなんだよね。だから、そういうことやってる奴は、俺はリスペクトできるよ。
鬼頭 本当よくわかってますよ、僕のこと(笑)。言い続けてることですからね、核みたいなものをどうやってなくしていくかということは。核をなくしてつくった場合、作品はどうなっていくんだろうというのが自分の興味なんですね。あと僕は「修練の賜物」っていう感じがあんまり好きじゃなくて、「修練しないけどできちゃう」みたいなのがすごいと思ってるんです。いわゆる一般的な「うまく描く」っていうことはしないから。
小林 それも技術だよ。技術のないヴィジョンはなんの力もないし、ヴィジョンのない技術も別になんの力もないわけでさ。魔法なんだよ、言っちゃえばさ。だけどそういう人に限ってさ、「いや、俺は別にただ魚を焼いてるだけです」みたいに言うから、「あ、そうなんだ」と思うよね(笑)。でもそれがどれだけ難しいか。
俺は絵を始めた頃さ、白い紙が最初にあったら何も描けなかったんだよ。スケッチブックでパラパラやるじゃん。で、この白い紙が出てきたときにはさ、もう絵が描かれてないと嫌だっていう感じだよ。それをどうやって現実化してやるか考えるようになって、(白いキャンバスを)張りながら描くことになった。でも「張りながら描く」というのが目的になるはずがないじゃない。ヴィジョンがない奴がテクニックを磨いてどうする?っていう話だよ。
二人展のもつ親密性
小林 今回、鬼頭が二人展っていうのを出してくるところが、やっぱり「見えてる」っていうかさ。俺が最初に二人展っていうのがあるんだというのを知ったのは(ベルギーの)ゲントでなんだけど、リュック・タイマンスとラウル・デ・カイザーが二人展やったんだよ。それが、やっぱり面白かった。ラウル・デ・カイザーは当時はそんなに知られてないから新鮮なんだよね。こういう抽象画家がいたのか、みたいな感じで。だから、タイマンスがカイザーの引き立て役じゃないけど。でも、タイマンスも、カイザーの作品があることで、タイマンスのもってる抽象性が混ざって見えるようなこともあったし。抽象のいわゆるフォーマルなことからではなくて、相当感覚のっていうかな、習性みたいなものが入り込んでるっていうのが。
鬼頭 僕も雑誌で見たんですけど、あれはすごく面白い展覧会だなと思った。誰かとの親密性において展覧会をやるって、あんまり現代美術ではないんですよね。意外とそういう関係性においても展覧会は成立するし。感覚とさっきおっしゃいましたけど。
小林 そうだよ。俺は、二人展っていうものがあるんだな、ってことを知ったっていうかさ。それまで、特にコンテンポラリーでは排除してきた感覚とか親密性を確かにキーワードで感じられて。日本だと、マンダースとボレマンスの二人展(「ダブル・サイレンス」2020-21、金沢21世紀美術館)も、やっぱりそういう親密性とかに関係するよね。
鬼頭 今回の展覧会だと小林さんの馬の絵があるじゃないですか、あの馬の絵はなんかいつもと違うなと思ったんですよ。それがすごい不思議で、自分と一緒にやった展覧会だからかもしれないけど、いままでで一番いいんじゃないかと勝手に思いましたね。何が違うのかは、ちょっとまだ言葉にできないですけど。
小林 それはそれで嬉しいけど、あれは鬼頭とやるっていうことで、京都用に新作で描いたやつなんだよ。何が違うかっていうのはわかんないけど。
京都にシーンとフィールドを
鬼頭 僕は学生時代からアーティスト・ラン・スペースを始めて、そこからキュレーションをしたり展覧会をやって、いまはギャラリーをやることになったんですけど、いろんな人たちがいて、いろんな状況で、いろんなことが起こることが、やっぱりシーンだと思うんですよね。
小林 鬼頭がさ、そういう色々やっているってこと、聞いたりもするじゃない。ただ俺からしてみたらね、鬼頭がやってるっていうことが、京都に行く口実で。だけど行ってみたら、それこそ(MtK Contemporary Artオーナーの)松島さんとかさ、やっぱり魅力的な人だったんだよ。だから、そういう人がついてくるシーンっていうのは、すごくいいと思うよね。だけど、俺はまあサッカーをやりに行っただけよ(笑)。
鬼頭 ありがとうございます(笑)。活性化して、アートシーンが面白くなっていけばいいと思っているので、そういうフィールドをつくっていけるように、僕も準備しています。自分の作品の制作や展覧会も含め、京都でいろんなことを複合的にできるようにしていきたいですね。