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INTERVIEW - 2019.6.11

アーティストとギャラリストはともに歩む。
小林正人✕佐谷周吾対談

油彩とキャンバスによる「絵」にこだわりながら創作をつづけ、昨年には自伝的小説『この星の絵の具』も刊行したアーティスト・小林正人。そして、ギャラリストとして小林をサポートし続けてきたShugoArtsの代表・佐谷周吾。アーティストとギャラリストがともに歩んだからこそ生まれたものを、二人の対談から明らかにしたい。

小林正人(右)と佐谷周吾(左)

小説『この星の絵の具』と個展「画家とモデル」

ーーまず、昨年末に刊行された小林さんの自伝的小説『この星の絵の具』についておうかがいします。3部作のうちの上巻「一橋大学の木の下で」が刊行され、現在は中巻を執筆中とのことですが、執筆を思い立った契機はなんだったのでしょう。

小林 東京藝術大学で人を教えるようになり、絵を描き始めた契機とかを学生に話す機会が増えた。でも俺は、昔話とか武勇伝みたいにそういうことを話す自分があまり好きじゃない。書いたほうがすっきりすると思ったんだよね。それと、やっぱり自分が絵を描くきっかけとなった、高校の憧れの「せんせい」のことが書きたかったんだ。

 実際に書いてみて、自分のこれまでやってきたことが全部つながっているってわかった。それは書いてみなきゃわからなかったこと。そして、絵を描いているからつながるということも、初めてわかった。仮に自分が絵を描いてなかったら、全部バラバラの話だったね。

『この星の絵の具』の上巻「一橋大学の木の下で」

ーー佐谷さんは小説をお読みになってどういう感想をお持ちになりましたか?

佐谷 書いてくれて良かったと思いましたね。エピソードが山ほどある小林ですので、誰かが書いてくれたらいいなとは思っていました。ギャラリーとしては小林のキャラクターを売り物にしないと決めていたので、あえて小説に出てくるようなエピソードの話は公にしてこなかったし、コレクターもそういったエピソードは知らずに作品を買ってくれました。だからこうして、一種の絵画論として完成したことは、とても良かったと思います。ただ、小林の認識と事実が若干異なるところもありますが(笑)。

小林 それは絵と同じだよ。ひとつの絵を同じように見ている人間がいないように、俺は自分にとっての真実を書いている。時空間を旅しながら書いたんだ、絵を描くときにひとつの絵に入り込みながら描くように。

ーー開催中の個展「画家とモデル」は馬とモデルの作品を中心に、《Unnamed》《この星のモデル》といったシリーズも展示されていて、小林さんのこれまでの創作の大きな流れが伝わってきます。自伝的小説を書いたことは展示にも影響していますか?

小林 俺はすべてが絵の問題だと思っているからもちろんつながっている。横たわるモデルの絵と、馬の姿をした画家の絵を中心に展示したけれど、モデルは撃たれていたり、馬は筆をくわえていたり、さらに馬の上にモデルが乗って人馬一体になっていたり。そこには俺にとっての画家とモデルの関係が表現されていて、画家にモデルが描かれるというクラシックな関係とは違うあり方を描いているんだ。絵に入り込む自分と、それを外側から見ている自分が両方いるような、見たり見られたりという関係性は、小説を書くことにも似ているね。

小林正人「画家とモデル」(2019)展示風景より。左から《この星のモデル》 (2018-19)と《Unnamed #61》(2018)
copyright the artistcourtesy of ShugoArts
小林正人「画家とモデル」(2019)より。シリーズ《この星のモデル》の作品が並ぶ
copyright the artistcourtesy of ShugoArts

出会い、そして《絵画=空》

ーー小林さんと佐谷さん、お二人の最初の出会いについて教えてください

佐谷 1985年に鎌倉画廊で開催された小林の初個展「絶対絵画」で初めて作品を見ました。ギャラリーの奥の方に鋭い目つきのお兄ちゃんがいて、「どうも」って挨拶したんだけど、ほとんどこちらを見ていない感じでしたね。

小林 そのときの個展で俺は、お客さんから作品を欲しいと言われても、売らないって答えていたんだよね。当時の頭の中のイメージでは、俺の作品は全部美術館に行くものだと思っていた。美術館が権威だからという話ではなく、当時の自分は「せんせい」のために描いていたから、誰かが自分の絵を買うという意識がまったくなかった。ただ絵を毎日描きたかった。そういう時期だったね。

東京藝術大学の卒業制作でもあり、初個展「絶対絵画」に出品された小林正人《天使=絵画》(1984)
charcoal,chalk,paint,canvas 130✕162cm 個人蔵

ーー個展の翌年、小林さんは佐谷画廊で個展を開きます。佐谷さんはいかにして小林さんの個展を実現したのでしょう?

佐谷 佐谷画廊のオーナーであった私の父の佐谷和彦は、若いアーティストを紹介したいという強い思いがあり、評論家も呼んでさまざまな展覧会を行っていました。当時の私も父のギャラリーを手伝っていたのですが、先輩の画商さんに「君のところは評論家を招かないと展覧会をできないのか、企画力のない画廊だ」と言われてカチンときたんですね。それで、父に「次の若いアーティストの展覧会は俺にやらせてくれ」と訴えたんです。その時期に小林の初個展である「絶対絵画」のパンフレットが私に届きました。小林の作品の画像を見て「このアーティストは普通じゃないな」と思い、声をかけたんです。

小林 当時、俺の制作を全面的に助けてくれてた人に、突然佐谷画廊へ連れていかれたんだ。実は俺、商業画廊に行ったのはそのときが初めてだったかもしれない。もちろん、貸画廊は学生のときにいろいろと行ったし、当時はもの派の展示とかもやっていたけれど、作品に値段はついていなかった。現代美術で食えるとか、そんなことは誰も考えないような時代だった。

 銀座四丁目の佐谷画廊に入ったときは、まず空気が違うと感じたね。その当時、俺は《絵画=空》を描いている途中だったけど、それをどこかで発表するなんて頭はこれっぽっちもなかった。でも、その絵が周囲の白い空間によって初めて成立するっていうビジョンは頭の中にあった。すごく白いきれいな壁に絵がかかっていて、「せんせい」がそこに見に来てくれるというビジョンだね。だけど、具体的にそれがどういうことなのかはわからなかった。でも佐谷画廊で初めて「あ、これが俺のイメージしていた白い壁だ」って感じたし、個展に臨もうと思ったんだ。

小林正人 絵画=空 1985-1986 oil,canvas 195✕291cm 東京国立近代美術館

ーー佐谷画廊での初めての個展で発表された《絵画=空》ですが、完成した作品を佐谷さんをどう受け止めましたか。

佐谷 当時、国立にあった小林のアトリエに行くと、とても狭い部屋に3メートルくらいの《絵画=空》が置いてありました。小林は「どうだ?」という様子で待ち構えているのだけど、部屋が狭くて絵との距離がとれませんでしたね。視点をどこに置けばいいかわからなかったんです。そしたら小林が、強い度の入ったメガネを渡してきて、それをかざして見れば絵の全体が見えるって言うんですよ(笑)。メガネを通して絵を見たら、非常に完成度が高い作品だということがわかりました。

 でも、初個展「絶対絵画」のときの作品のイメージで小林には声をかけていたので、《絵画=空》のような線のない絵を見せられるとは思っておらず、正直うろたえました。「新しい作品は今までと違うタイプだ」と言って父に写真を見せたのですが、父も判断がつかなかったですね。

ーー《絵画=空》はその後、東京国立近代美術館に収蔵され、小林さんの画業を象徴する作品のひとつとなります。

佐谷 《絵画=空》は、1989年に東京国立近代美術館で開催された「色彩とモノクローム」展にピックアップしてもらい、その後の1991年に購入となりました。あのときにコレクションしてもらって本当に良かったです。《絵画=空》は、現在までに何度も収蔵作品展で展示されましたが、観覧者へのアンケートではいつも上位に入ると美術館の人に教えてもらいました。

小林 当時《絵画=空》は看板って言われていたんだよ。《絵画=空》を換気しない部屋で制作しているとき、酸欠で倒れたことがあった。そのとき、俺を運びだそうとする救急隊員の人に「看板描きが倒れた」なんて言われて。俺は薄れゆく意識で「自分の絵を看板って言われながら死ぬのか」って思ってたけど(笑)。でも看板っていう印象は、ある意味正しくもあってね。国立の部屋で、当時カナダのバンクーバーで暮らしていた「せんせい」にも見えるようにって思いながら描いていた。それこそ看板みたいにね。ファンタジーみたいな話だけど、自分の中では全部現実だった。

作品の力を伝える

ーー当時は、美大生がみな哲学書を抱えていて、絵画の終焉が盛んに言われていた時代だったと、小林さん身の自伝的小説『この星の絵の具』に書かれています。そのような時代の空気の中で、小林さんはやはり特殊なアーティストだったのでしょうか?

小林正人

小林 俺は、絵描きになろうと思って東京藝術大学に入ったんだ。それこそ、青木繁とか佐伯祐三とか前田寛司とか、そういう画家に憧れていた。でも入学すると「絵画は終わった」とか言われていて。学校で絵を描いていると、先輩が来て「何やってんの」って聞かれる。当然「絵を描いてる」って答えると、「平面?」とか聞かれる。そんな風に、とにかく当時は「平面」と「立体」って言われていた。

佐谷 当時はグリーンバーグの美術批評『モダニズムの絵画』の影響が強くて、素直に絵という言葉が使えない時代でした。

小林 みんながモダニズムのレクチャーみたいな勉強会をやっていた。参加してみれば、美術史の断片としては納得する。けれど、みんなのやってることは何かっていうと「もう描くことは何もない」ということを、どう言うかということばかりだった。重箱の隅をつつているように俺には感じられた。

ーー「絵」を描くということが、小林さんの創作の芯としてあるような気がします。

小林 そうだね、何をしてても、全部絵のことであり、絵の問題だと考えている。それは《絵画=空》を描いていたときから現在まで変わらない。頭の中に生まれたイメージが絵であって、それは物質ではないし、俺にしか見えない。それがいろいろな形になって外に現れていく。それは全部、絵だと思っている。わざわざインスタレーションだとか言い換えたりはしない。今も昔も、自分がつくるものは明確に絵だね。

ーー小林さんは一貫して絵を制作しているとのことですが、そんな小林さんの作品を、ギャラリストとして佐谷さんはどのように取り扱っていたのでしょうか。

佐谷 僕は小林の作品が本当に良いと思っていたし、生活のためのお金もずっと支援していました。だけれども、評価を得るのは大変でしたね。当時、小林の作品は先輩の作家たちにいろいろと揶揄されていたし、作品を買い取ってくれた東京国立近代美術館の人たちは評価してくれたけど、他の美術館の人たちが必ずしも同様に見てくれていたかというと、そうではなかったですね。

 特殊なアーティストという評価の中で、ピンときた一部の人たちが買ってくれていました。小さい作品を家の食卓に飾ったら「家族がみんな気に入って食卓からは外せなくなった」とか言ってくれたりして。作品の持つ力というのは、そういうところで証明されていくんだと思いながら、取り扱っていましたね。

ヤン・フートとの運命的な出会い

ーーそして小林さんの作品は1995年、ベルギーのゲント現代美術館の館長であった世界的なキュレーター、ヤン・フートの目に止まることになります。

佐谷 ヤン・フートがキュレーションする「水の波紋’95」という展覧会が、ワタリウム美術館で開催されることになりました。アーティストたちがこぞって自分の作品をヤンに見せにくるような状態でしたね。

 ドクメンタ7の画期的な成功もあって、当時のアーティストや関係者はなんとか彼に作品を見てもらおうとしていました。僕は幸運にもヤンに会えることになり、アーティストたちのポートフォリオをこしらえて持って行きました。すると、ページをめくるヤンの手が小林のところで止まったんですね。ヤンはなんだかすごい興奮しだして、動物園の檻の中の熊みたいに、部屋の中をぐるぐる回りだしたんですよ。そして一気に喋り出し、俺はこの《画(3つの林檎)》を見たいと言い出したんです。実物をギャラリーで見せたら、ヤンは1時間ほど立ったり座ったりを繰り返しつつ、猛烈な集中力で作品を見たあとに「俺はこれを今度オープンする美術館のために買う。そしてこの作家をベルギーに呼ぶ」と言ったんです。

画(3つの林檎) 1993 oil,canvas 198✕262.5cm ゲント市立現代美術館

 あれは驚きました。ヤン・フートが一瞬で小林の才能を見抜いた。私にとってそれはすごいことでした。そのときの小林は「ヤン・フートって誰だ?」みたいな感じだったんですけどね。小林はこれ以上日本でやっていくのは厳しそうだし、ゲントで何かチャンスが見つかるといいなと思いました。最初の滞在で、ゲント現代美術館の人や周囲のアーティストが、小林のことをすごく理解し、評価してくれて、これほどアーティストらしいアーティストはいないということに価値を見出してくれました。

 日本では変わり者扱いで、「あいつは挨拶もしないでけしからん」とか言われてしまう小林でしたが、ゲントには全然違う場所がありました。展覧会の後、美術館のみなさんが僕の肩を叩いて「小林をゲントに置いていけ」と言ってくるんです。世界にはわかる人がいるんだなと思いました。世界に出ていきたいアーティストは大勢いると思いますけど、結局は作品によって世界に出ていける。それを、小林は身をもって証明しましたね。

ーーその後、ゲントで行われた「赤い扉」という展覧会で、小林さんの床に置く絵が生まれます。

小林 「赤い扉」は新しくオープンするゲント現代美術館のプレ的な展覧会だったんだ。この「赤い扉」というのは、将来現代美術館になる建物の、巨大な収蔵庫の赤いシャッターのこと。つまりヤンは、美術館の収蔵庫で展覧会をやろうとしていたわけだ。今でも通用するような考え方だよね。例えば、この展示で蔡國強は収蔵庫の長い壁に火薬画の龍を描き、ヤンはそれを買ったりしているんだけれど、それだけでも普通の展覧会ではないことがわかる。

 作品設置のとき、キュレーターが俺の作品を壁にかけようと、絵を持ち上げかけた。そのときにヤンがいきなり「ステイ!」って言って。キュレーターはびっくりして絵を下ろしたんだよね(笑)。そしてヤンは床に置かれた絵を見ながら、俺に「ほら、あれはすでに素晴らしい」って言ったんだ。俺はそれがすとんと腑に落ちたんだ。そこで初めて、俺の作品が理にかなった気がした。

 床に置いたあと、周吾に国際電話でそれを報告したら、周吾はすごい怒ったね。「ヨーロッパに行ってまで何ふざけたことしてんだ! 君は、絵画を追求してるんじゃないのか!」って(笑)。俺は「見ればわかる、見てもらわないと説明できない」って答えて。でも、周吾は見に来たら一瞬で理解したな。

佐谷 当時は床に置く意味を言葉にできなかったけど、いまならきちんと説明できる気がします。小林は1993年の個展「絵画の子」のときに、すでにキャンバスを張りながら描いていましたが、描く絵のモチーフに合わせて、フレームの桁を選んでいるんです。だから、絵画の骨組みとキャンバスという構造が、絵にも現れる。つまり、絵画そのものが一種のボディになっているんです。ボディになっているから、床に置いてもいいし、どのように展示しても空間に対して耐えうるものになる。その頃から小林の仕事は論理的に破綻なく、いまにまでつながっている。

小林正人「絶対絵画」(1985)の図録を手に持つ佐谷周吾

 かつてヤン・フートが小林とのアーティストトークで、東京藝術大学の卒業制作の作品である《天使=絵画》を指差しながら「この絵にはすでにその後の小林正人の仕事が現れている」とも言っていました。「描かれている人物の腕を見なさい、この木枠から出たがって押し広げている、このあとの小林の作品の展開がここにすでに現れています」と。小林の創作はそうやっていつもつながっていくんですね。でも、床に置く絵って売れないだろうなとは思いましたよね。部屋が掃除できないじゃないかって(笑)。

小林 当時は、絵画に対して厳しい固定概念があって、絵画には正面性が必要だった。だから、床に置く絵画は当時初めてだったし、ヤンもそう言っていた。今では床置きの絵画なんていくらでもあるけれど、当時はそういう時代だったんだ。コマーシャルギャラリーでそれを展示しなければいけない周吾の立場からすると、簡単な問題じゃなかったと思うよ。

アーティストとギャラリスト

ーー佐谷さんが小林さんの考え方を理解できたのはいつ頃でしょうか?

佐谷 いまでも完全に理解はできていないのかもしれない。「周吾、できたぞ」って言われてアトリエに作品を見に行くと、だいたい呆然としちゃうのは、昔から変わらないですね。でもギャラリストの役得というのは、毎日展示を見られること。毎日見ていると、小林が言っていることが次第にわかってきたり、作品に隙がないことに気がつきます。

小林 アーティストのほうが作品を理解するのは早いんだよね。周吾もやはり理解するんだけど、少し時間がかかる。でも、ギャラリストはいろんな問題を考えながら作品と向き合うわけだ。アーティストは作品だけで良し悪しを直感的に判断するけど、ギャラリストは耐久性や物理的な制約を視野にいれながら見なきゃいけない。その点でいうと俺の作品は、周吾の悩みの種になるようなものが多いよね。

佐谷 彼のことを学生時代からひいきにしていた人たちに、小林の作風の変化を受け入れていることについて、すごい説教されたこともあります。裏切られたような気持ちになるんでしょうね。他にも、キャンバスからは釘が出たままなので「釘は打ち込んで持ってくるのが普通じゃないか」みたいなことをお客さんに言われたりもしました。

小林 俺は、最初に釘を打ってキャンバスを張って描くわけじゃないから、そもそも絵の成立過程が違う。自分の絵を自由に描くためには、四角いキャンバスは窮屈だったし、構造を変えなければいけなかったから。フレームをつくる、キャンバスを張る、描く、それを全部一緒にやることにした。だから、釘が出ているのは当たり前なんだ。でも、昔はこういう論理的なことを喋らなかったから、みんなわからなかっただろうけど。

「Gelijk het leven is」(2003)での床に置いた絵画の展示風景

佐谷 そういえば、床に置く絵画を見た蔡國強が、何かを援用するのではなく、スクラッチから作品を成立させることのできるアーティストは日本からは出てこないという結論を出して7年居た日本を出たのに、小林が出てきて驚いたと言っていましたね。

小林 日本だと、何か新しいことをするときに、イメージを新しくするとか、素材を新しくするとか、そういうアプローチがほとんどだよね。でも俺はオイルとキャンバスを使いながら、絵画の「Oil on canvas」という構造を「Oil with canvas」という構造にした。そういったアプローチは、他の日本のアーティストのやり方と違ったんだろうね。

ーーお話を通じて、お二人が強い信頼関係のもとで二人三脚でこれまでやってきたという印象を強く受けました。佐谷さんには、小林さんを育てるという強い思いがあったのでしょうか?

佐谷 よく「アーティストを育てていますね」と言われますが、アーティストは勝手に育つものというのが私の持論なので、並走者ぐらいの感じだと思います。

小林 でもひとつ言えることがある。周吾がいなかったら、ひょっとしたら俺はまだ同じ空の絵を描いているかもしれない。作品はギャラリーに運ばれるから描けなくなるけど、本当はずっと描いていたい。これだけの多くの絵を描いていても、アトリエからも倉庫からも、作品がちゃんとなくなっている。それはもう周吾のおかげだよ。

佐谷 まあ、冗談でよく言うんですけど、小林は南極に行ってもペンギンが助けてくれるんじゃないかというくらい、つながりで助けられる星の下に生まれている。でもそれは、ただのラッキーとは違う。小林は、はっきりと目的が見えていて、それをこの惑星に生み出す力がある。だから作品に力があるし、その力に最初に出会ったときから魅せられているんだと思います。

小林 絵を描いていくことで全部がつながってきた。絵を描かせてくれたのは周吾でさ、感謝しているよ。

佐谷 何をいきなり(笑)。でも、小林正人はShugoArtsというギャラリーにとってモチベーションであり、アイデンティティであると言って良いと思います。小林正人との出会いがあったおかげで、シュウゴアーツがここまで来られたことは間違いなく事実です。

ゲント時代に小林正人が佐谷周吾に送ったイラスト入りのファックス。作品完成の報告や、制作資金の援助のお願いなどが書かれている