小説『この星の絵の具』と個展「画家とモデル」
ーーまず、昨年末に刊行された小林さんの自伝的小説『この星の絵の具』についておうかがいします。3部作のうちの上巻「一橋大学の木の下で」が刊行され、現在は中巻を執筆中とのことですが、執筆を思い立った契機はなんだったのでしょう。
小林 東京藝術大学で人を教えるようになり、絵を描き始めた契機とかを学生に話す機会が増えた。でも俺は、昔話とか武勇伝みたいにそういうことを話す自分があまり好きじゃない。書いたほうがすっきりすると思ったんだよね。それと、やっぱり自分が絵を描くきっかけとなった、高校の憧れの「せんせい」のことが書きたかったんだ。
実際に書いてみて、自分のこれまでやってきたことが全部つながっているってわかった。それは書いてみなきゃわからなかったこと。そして、絵を描いているからつながるということも、初めてわかった。仮に自分が絵を描いてなかったら、全部バラバラの話だったね。
ーー佐谷さんは小説をお読みになってどういう感想をお持ちになりましたか?
佐谷 書いてくれて良かったと思いましたね。エピソードが山ほどある小林ですので、誰かが書いてくれたらいいなとは思っていました。ギャラリーとしては小林のキャラクターを売り物にしないと決めていたので、あえて小説に出てくるようなエピソードの話は公にしてこなかったし、コレクターもそういったエピソードは知らずに作品を買ってくれました。だからこうして、一種の絵画論として完成したことは、とても良かったと思います。ただ、小林の認識と事実が若干異なるところもありますが(笑)。
小林 それは絵と同じだよ。ひとつの絵を同じように見ている人間がいないように、俺は自分にとっての真実を書いている。時空間を旅しながら書いたんだ、絵を描くときにひとつの絵に入り込みながら描くように。
ーー開催中の個展「画家とモデル」は馬とモデルの作品を中心に、《Unnamed》や《この星のモデル》といったシリーズも展示されていて、小林さんのこれまでの創作の大きな流れが伝わってきます。自伝的小説を書いたことは展示にも影響していますか?
小林 俺はすべてが絵の問題だと思っているからもちろんつながっている。横たわるモデルの絵と、馬の姿をした画家の絵を中心に展示したけれど、モデルは撃たれていたり、馬は筆をくわえていたり、さらに馬の上にモデルが乗って人馬一体になっていたり。そこには俺にとっての画家とモデルの関係が表現されていて、画家にモデルが描かれるというクラシックな関係とは違うあり方を描いているんだ。絵に入り込む自分と、それを外側から見ている自分が両方いるような、見たり見られたりという関係性は、小説を書くことにも似ているね。
出会い、そして《絵画=空》
ーー小林さんと佐谷さん、お二人の最初の出会いについて教えてください
佐谷 1985年に鎌倉画廊で開催された小林の初個展「絶対絵画」で初めて作品を見ました。ギャラリーの奥の方に鋭い目つきのお兄ちゃんがいて、「どうも」って挨拶したんだけど、ほとんどこちらを見ていない感じでしたね。
小林 そのときの個展で俺は、お客さんから作品を欲しいと言われても、売らないって答えていたんだよね。当時の頭の中のイメージでは、俺の作品は全部美術館に行くものだと思っていた。美術館が権威だからという話ではなく、当時の自分は「せんせい」のために描いていたから、誰かが自分の絵を買うという意識がまったくなかった。ただ絵を毎日描きたかった。そういう時期だったね。
ーー個展の翌年、小林さんは佐谷画廊で個展を開きます。佐谷さんはいかにして小林さんの個展を実現したのでしょう?
佐谷 佐谷画廊のオーナーであった私の父の佐谷和彦は、若いアーティストを紹介したいという強い思いがあり、評論家も呼んでさまざまな展覧会を行っていました。当時の私も父のギャラリーを手伝っていたのですが、先輩の画商さんに「君のところは評論家を招かないと展覧会をできないのか、企画力のない画廊だ」と言われてカチンときたんですね。それで、父に「次の若いアーティストの展覧会は俺にやらせてくれ」と訴えたんです。その時期に小林の初個展である「絶対絵画」のパンフレットが私に届きました。小林の作品の画像を見て「このアーティストは普通じゃないな」と思い、声をかけたんです。
小林 当時、俺の制作を全面的に助けてくれてた人に、突然佐谷画廊へ連れていかれたんだ。実は俺、商業画廊に行ったのはそのときが初めてだったかもしれない。もちろん、貸画廊は学生のときにいろいろと行ったし、当時はもの派の展示とかもやっていたけれど、作品に値段はついていなかった。現代美術で食えるとか、そんなことは誰も考えないような時代だった。
銀座四丁目の佐谷画廊に入ったときは、まず空気が違うと感じたね。その当時、俺は《絵画=空》を描いている途中だったけど、それをどこかで発表するなんて頭はこれっぽっちもなかった。でも、その絵が周囲の白い空間によって初めて成立するっていうビジョンは頭の中にあった。すごく白いきれいな壁に絵がかかっていて、「せんせい」がそこに見に来てくれるというビジョンだね。だけど、具体的にそれがどういうことなのかはわからなかった。でも佐谷画廊で初めて「あ、これが俺のイメージしていた白い壁だ」って感じたし、個展に臨もうと思ったんだ。
ーー佐谷画廊での初めての個展で発表された《絵画=空》ですが、完成した作品を佐谷さんをどう受け止めましたか。
佐谷 当時、国立にあった小林のアトリエに行くと、とても狭い部屋に3メートルくらいの《絵画=空》が置いてありました。小林は「どうだ?」という様子で待ち構えているのだけど、部屋が狭くて絵との距離がとれませんでしたね。視点をどこに置けばいいかわからなかったんです。そしたら小林が、強い度の入ったメガネを渡してきて、それをかざして見れば絵の全体が見えるって言うんですよ(笑)。メガネを通して絵を見たら、非常に完成度が高い作品だということがわかりました。
でも、初個展「絶対絵画」のときの作品のイメージで小林には声をかけていたので、《絵画=空》のような線のない絵を見せられるとは思っておらず、正直うろたえました。「新しい作品は今までと違うタイプだ」と言って父に写真を見せたのですが、父も判断がつかなかったですね。
ーー《絵画=空》はその後、東京国立近代美術館に収蔵され、小林さんの画業を象徴する作品のひとつとなります。
佐谷 《絵画=空》は、1989年に東京国立近代美術館で開催された「色彩とモノクローム」展にピックアップしてもらい、その後の1991年に購入となりました。あのときにコレクションしてもらって本当に良かったです。《絵画=空》は、現在までに何度も収蔵作品展で展示されましたが、観覧者へのアンケートではいつも上位に入ると美術館の人に教えてもらいました。
小林 当時《絵画=空》は看板って言われていたんだよ。《絵画=空》を換気しない部屋で制作しているとき、酸欠で倒れたことがあった。そのとき、俺を運びだそうとする救急隊員の人に「看板描きが倒れた」なんて言われて。俺は薄れゆく意識で「自分の絵を看板って言われながら死ぬのか」って思ってたけど(笑)。でも看板っていう印象は、ある意味正しくもあってね。国立の部屋で、当時カナダのバンクーバーで暮らしていた「せんせい」にも見えるようにって思いながら描いていた。それこそ看板みたいにね。ファンタジーみたいな話だけど、自分の中では全部現実だった。
作品の力を伝える
ーー当時は、美大生がみな哲学書を抱えていて、絵画の終焉が盛んに言われていた時代だったと、小林さん身の自伝的小説『この星の絵の具』に書かれています。そのような時代の空気の中で、小林さんはやはり特殊なアーティストだったのでしょうか?
小林 俺は、絵描きになろうと思って東京藝術大学に入ったんだ。それこそ、青木繁とか佐伯祐三とか前田寛司とか、そういう画家に憧れていた。でも入学すると「絵画は終わった」とか言われていて。学校で絵を描いていると、先輩が来て「何やってんの」って聞かれる。当然「絵を描いてる」って答えると、「平面?」とか聞かれる。そんな風に、とにかく当時は「平面」と「立体」って言われていた。
佐谷 当時はグリーンバーグの美術批評『モダニズムの絵画』の影響が強くて、素直に絵という言葉が使えない時代でした。
小林 みんながモダニズムのレクチャーみたいな勉強会をやっていた。参加してみれば、美術史の断片としては納得する。けれど、みんなのやってることは何かっていうと「もう描くことは何もない」ということを、どう言うかということばかりだった。重箱の隅をつつているように俺には感じられた。
ーー「絵」を描くということが、小林さんの創作の芯としてあるような気がします。
小林 そうだね、何をしてても、全部絵のことであり、絵の問題だと考えている。それは《絵画=空》を描いていたときから現在まで変わらない。頭の中に生まれたイメージが絵であって、それは物質ではないし、俺にしか見えない。それがいろいろな形になって外に現れていく。それは全部、絵だと思っている。わざわざインスタレーションだとか言い換えたりはしない。今も昔も、自分がつくるものは明確に絵だね。
ーー小林さんは一貫して絵を制作しているとのことですが、そんな小林さんの作品を、ギャラリストとして佐谷さんはどのように取り扱っていたのでしょうか。
佐谷 僕は小林の作品が本当に良いと思っていたし、生活のためのお金もずっと支援していました。だけれども、評価を得るのは大変でしたね。当時、小林の作品は先輩の作家たちにいろいろと揶揄されていたし、作品を買い取ってくれた東京国立近代美術館の人たちは評価してくれたけど、他の美術館の人たちが必ずしも同様に見てくれていたかというと、そうではなかったですね。
特殊なアーティストという評価の中で、ピンときた一部の人たちが買ってくれていました。小さい作品を家の食卓に飾ったら「家族がみんな気に入って食卓からは外せなくなった」とか言ってくれたりして。作品の持つ力というのは、そういうところで証明されていくんだと思いながら、取り扱っていましたね。
- 1
- 2